エーリヒ・クライバー&ケルン放送響によるドヴォルザークの≪新世界より≫を聴いて
エーリヒ・クライバー&ケルン放送響によるドヴォルザークの≪新世界より≫(1954年ライヴ)を聴いてみました。
エーリヒ・クライバー(1890-1956)、今となってはカルロス・クライバーのお父さん、という認識が強いかと思えますが、20世紀の前半を代表する指揮者の一人でありました。フルトヴェングラー、ワルター、トスカニーニと、クレンペラー、エーリヒ・クライバーの5人が1枚に収まっている有名な写真(1929年にベルリンで撮影されたと言われている)は、彼の存在の大きさを物語っていると言えましょう。
余談でありますが、エーリヒ・クライバーが急逝したのは、1956年1月27日。その日は、モーツァルトの生誕200年の記念日でもありました。
さて、ここでの≪新世界より≫についてでありますが、自在感に満ちていて、そして、生命力豊かで壮健な演奏であります。
冒頭楽章の序奏部は、おどろおどろしく開始される。しかしながら、主部に入ると、疾駆感に満ちた音楽が掻き鳴らされてゆくのであります。それでいて、第2主題では、他の演奏以上にテンポをガタンと落として、濃密なロマンティシズムを描き出す。展開部は、オーケストラを目一杯に鳴らして、輝かしい音楽を奏で上げる。コーダでは、僅かではあるがアッチェレランドを掛け、大きな昂揚感を築いてゆく。
かように、急速楽章の3つは、速めのテンポでキビキビと進めることを基調としながらも、随所でアゴーギクを効かせて、奔放な音楽が奏でられている。
一方、緩徐楽章となる第2楽章は、極度にゆったりとしたテンポが採られており、濃厚な表情を湛えた音楽が繰り広げられてゆく。ときおり、急激なアッチェレランドを掛けるなどの伸縮によって、音楽に潮の満ち引きに似た風情が与えられることとなってもいる。
このような形で、多彩な表情が与えられている演奏となっていますが、恣意的な音楽になっているかと言えば、さにあらず(最終楽章の展開部のはじめの方での突然のリタルダンドは、やや恣意的に感じられますが)。誠に振幅の大きな演奏が繰り広げられていながらも、作品の欲求に応じて、自在に表情を変えてゆく。それはもう、融通無碍な演奏ぶりであると言えましょう。そのうえで、とてもしなやかで、かつ、激情的な演奏となっている。コクの深さが感じられもする。
エーリヒによる音盤と言えば、ウィーン・フィルとステレオ録音した≪フィガロの結婚≫全曲や、コンセルトヘボウ管と1950年代にセッション録音したベートーヴェンの交響曲第3,5,6,7番辺りが、広く聴かれていると言えるのではないでしょうか。それらでは、基本的には、毅然としていつつも、優美で馥郁とした演奏を聞かせてくれていました。
(ベートーヴェンの7番では、覇気があって、力感に富んでいて、逞しさや熱気も充分に備えている演奏となっていましたが。)
そこへいきますと、この≪新世界より≫は、随分と表現意欲の旺盛な演奏となっています。とは言いましても、私には、独りよがりな演奏には思えない。作品と齟齬をきたしていない演奏であると思えるのです。
ユニークな魅力を湛えた、素敵な演奏であります。