ウィーン八重奏団の西宮公演(シューベルトの八重奏曲 他)を聴いて

今日は、兵庫県立芸術文化センターでウィーン八重奏団による演奏会を聴いてきました。演目は、下記の3曲。
●モーツァルト ≪フィガロの結婚≫序曲(八重奏版)
●モーツァルト クラリネット五重奏曲(Cl独奏:ショルン)
●シューベルト 八重奏曲
ウィーン・フィルのメンバーによるアンサンブル。そんな彼らが、モーツァルトとシューベルトを奏でてくれる。ウィーン・フィルを愛する私にとっては、更には、ウィーン・フィルのメンバーによる室内楽を愛する私にとっては、夢のような演奏会であります。
ウィーン八重奏団は、1947年にボスコフスキーが結成し、その後、メンバーが交代しながらも引き継がれていきましたが、ヒンク(1974-2008年にコンマスと務める)とシュミードル(1968年より第1クラリネット奏者を務める)の引退によって活動休止に。そのような中、1997年生まれのサーディがウィーン・フィルのコンマスに就任した昨年、再結成されたとのことであります。
なお、クラリネット五重奏曲でのクラリネット独奏をはじめ、全演目でクラリネットを吹くショルンは、2007年からウィーン・フィルの首席を務めているようです。
先々月には樫本大進さんが率いるベルリン・フィル八重奏団によるシューベルトの八重奏曲の実演に接しました。短期間のうちに、ベルリン・フィルとウィーン・フィルのアンサンブルによって同じ曲を聴くことができるというのも、なんと言う幸運なのでありましょう。
そのベルリン・フィル八重奏団によるシューベルトの八重奏曲は、緊密なアンサンブルをベースにしながらの緻密で立派な演奏であり、美しくも魅惑的な音楽が鳴り響いていたのですが、聴いていて今一つ恍惚としてくることはありませんでした。夢の世界に引き込まれたといったことにはならずに、現実世界の中で作品を追っていた、といった感じ。それは、この作品に備わっていて欲しいウィーン情緒、といったものが薄かったが故に。
はたして本日は、ウィーン情緒に溢れた音楽に触れることができるだろうか。きっとそうなるであろうという予感を胸に抱きながら、会場に向かったものでした。
それでは、本日の演奏会をどのように聴いたのかについて、書いてゆくことに致します。

まずは前半の2曲から。
いやぁ~、なんという素晴らしい演奏だったことでしょう。至福の時を過ごした、という思いでいっぱいでありました。
前プロの≪フィガロの結婚≫序曲は、まさに、開幕のための音楽に相応しかった。しかも、ウィーン・フィルならではのまろやかな響きで包まれた演奏となっていた。日頃はウィーン国立歌劇場のピットで演奏しているメンバーたち。この作品の「息吹」がどこにあるのかを熟知した上での演奏だった。そんなふうにも言えそう。
そのうえで、各パートに出っ張りが全くない。必要十分な自己主張を行いつつも、均衡の取れた演奏が繰り広げられていたのであります。響きのブレンド具合も、絶妙。この点は、前プロでの演奏に限ったことではなく、全3曲を通じて感じられたことなのですが、僅か数分間の前プロからも強く感じ取れたものでした。それは、ウィーン・フィルというオーケストラの大きな美質でもある。すなわち、この八重奏団が「ウィーン・フィルのミニチュア版」なのだ、ということを痛感させられる前プロとなっていたのであります。
そんなこんなによって、惚れ惚れしながら、かつ、ウキウキしながら聴いたものでした。
続くクラリネット五重奏曲は、クラリネット奏者のショルンが絶品でした。まろやかにして、ふくよかで、かつ、繊細で精妙な音で音楽を紡ぎ上げてくれていた。特に、弱音での身震いするほどの美音は、格別でありました。
また、ところどころで装飾音を入れたり、音楽を伸び縮みさせたり、微妙な抑揚を付けたりと、即興性の高い音楽を奏でていた。しかも、それらの多くには嫌味がなかった。もっとも、装飾音については、それが付くことによってピュアな美しさを損ねることに繋がりかねないこともありはしました。とは言うものの、装飾音によって、愉悦感が増すこととなっていたのも確かであり、強い嫌悪感を催すというほどのことはありませんでした。
そのようなクラリネットに対して、弦楽器群も、実にまろやかな音楽を奏でていた。これぞ、ウィーン・フィルのメンバーによる音楽、と言いたくなる演奏でありました。
そのような感覚的な部分での素晴らしさのみならず、例えば、第1楽章の第2主題などでは、胸が張り裂けるように切ない音楽になっていて、大いに心を揺さぶられたものでした。それはまさに、モーツァルトがそのような音楽を書いたからに他ならないのですが、そういった音楽を、まさに感じ切りながらの演奏が展開されていたのであります。明るい曲調であるのに、もの悲しさを湛えている音楽が鳴り響いていた。それは例えば、最終楽章の第5変奏、テンポをアダージョに落として奏でられる箇所で、夕映えのような美しさを湛えた音楽を奏で上げていた点などに如実に現れていました。しかも、その直後の最後の変奏では、最終楽章の冒頭部分に増して速いテンポが採られ、一気呵成に、そして、嬉々とした表情を浮かべながら、曲が閉じられた。そのコントラストの鮮やかさの、なんと見事なことだったでしょう。
そんなこんなを含めて、晩年のモーツァルトの「心の襞」といったものを、随所に感じ取ることができた演奏だったとも言いたい。
更には、第1ヴァイオリンのサーディの艷やかな音もさることながら、チェロによるまろやかな音や、ヴィオラが要所要所で音楽をピシっと締めていく様など、極上のアンサンブルを聴いた、という思いを強くしたものでした。
ここからは、メインのシューベルトについて。
そのシューベルトでは、前半ほどの感銘を受けるまでに至りませんでした。その最大の要因は、クラリネットのショルンの音が、前半ほどにまろやかではなかった点にありました。時にかなり鋭い音を発する。クラリネット五重奏曲で、あれほどまでにデリケートな音楽を奏で上げていたというのに。なんだか人が変わったようでありました。
そのことは、第1楽章が開始された早々から感じられた。アダージョによる序奏部が終わってアレグロによる主部に入って12,13小節目に現れる3連符による動きが、かなり攻撃的だったのです。この箇所に限らず、第2主題が提示された後に提示部を結ぶ音型をチェロとクラリネットが交互に奏でる箇所(練習番号のC)で頻繁に現れるアクセントも、無理に強調するようにして鋭く吹かれていた。ちょっと語気を荒くすれば、がさつな感じも受けた。そんなこんなによって、音楽の美観を損ねることとなっていた。
いったい、クラリネット五重奏曲でのショルンはどこに行ってしまったのだろう。大いに面食らったとともに、不思議でなりませんでした。
そこで、はたと気付いたのは、次のようなこと。
クラリネット五重奏曲はA管で演奏する作品。そして、シューベルトの八重奏曲はB♭管で演奏される。一般に、A管のほうが、まろやかで太い音がする。それに比べると、B♭管は鋭くて明るい音がする。その違いが、大きな形で現れてしまったのではないだろうか。ちなみに、≪フィガロの結婚≫序曲も、原曲はA管が指定されているためA管で吹いていたことでしょう。
更に、A管からB♭管に持ち替えたことに伴って、リードを薄いものに変えたのかもしれません。そう、太い音がしていたというよりも、薄くて煌びやかな(言い方を変えるとキンキンとした)音で吹かれることが多くなったのであります。
私自身、大学オケでクラリネットを吹いていて、しかも、ウィーンの楽器(ハンマーシュミットというメーカーの楽器。但し、運指はフランス式の楽器)を吹き、かつ、極力厚いリードを使うようにしていたこともあり、そのような状況の元で同じオケの仲間を集めてシューベルトの八重奏曲を何度も吹いた経験がある(ベートーヴェンの七重奏曲のほうを、より一層好んで演奏していた)身としては、やるせない思いで聴いていたものでありました。
私は、ウィーン・フィルのクラリネットを最上だと見なしており、その中でも特に、プリンツ(1955年から首席奏者を務め、1995年まで在団した)が吹くクラリネットを規範としています。そのプリンツは、薄いリードで吹くことは悪魔に魂を売るようなものだ、といった趣旨のことを語ってもいた。
(薄いリードのほうが、音のコントロールをしやすくなる。)
そんなこんなに思いを馳せながら聴いていたのでありました。その結果として、恍惚としてくるといったことに至ることはなかった。前半の2曲では、間違いなく恍惚としながら聴いていたのですが。
これは、私自身がクラリネットを吹いていたということによって、クラリネットに偏重した聴き方になっていた、ということにも依りましょう。そのことを認めつつも、この作品はクラリネットと第1ヴァイオリンの比重が極端に高くなっているが故に、クラリネットの出来栄え(という表現は、あまり好ましくないかもしれませんが)が演奏全体に影響する度合いは非常に大きく、クラリネットに焦点を当てることもあながち行き過ぎではない、とも言いたくなるところであります。
と、ここまではショルンについて、かなり辛辣に書いてきましたが、随所で、弱音の美しさを聞かせてくれていました。すなわち、強奏した際に、時として粗さが出てきてしまうのであり、そうでなければ、まろやかな音で音楽を敷き詰めてくれていたのであります。とりわけ、第2楽章での弱音を主体とした繊細な演奏ぶりには、息を飲むような美しさを湛えていたものでした。似たようなことが第4楽章の第4変奏にも当てはまるし、これら以外の箇所でも、至る所で感じ取れた。それは、「ウィーン・フィルのクラリネットを聴く歓び」そのものでもあった。
シューベルトについて書き始めてからというもの、ここまで、クラリネットのショルンのことばかり触れてきましたが、それ以外の7人について言えば、さすがはウィーン・フィルのメンバーだと唸ってしまうほどに、芳醇でコクのある音楽を奏で上げてくれていました。ホルンなどは、全体を通じてかなり控えめに吹いているような印象が強かったのですが、第1楽章の終結部での雄大さの感じられるソロなどは、柔らかな音で、タップリと吹き上げてくれていた。それは例えば、ブラームスのピアノ協奏曲第2番の冒頭を想起させられるようなものでもあった。
また、普段はあまり目立たない存在だと言えそうな第2ヴァイオリンにも、主旋律や対旋律といった重要な役割を担うことが多く、そのような要求に、シッカリと応えてくれていました。
そのようなメンバー達による演奏は、シューベルトならではの歌心に富んでいて、かつ、抒情性の豊かなものとなっていた。とても伸びやかでもあった。そして、何と言いましても、ウィーン情緒に覆われた音楽が鳴り響くこととなっていた。そう、とても芳しい音楽が響き渡っていたのであります。
しかも、おっとりとしているようで、敏捷性の高い演奏でもあった。そう、キビキビと音楽が進められることが多かったのであります。或いは、音楽が至る所で存分に弾んでいたのであります。例えば、第4楽章の最後の変奏となる第7変奏では、リズミカルな魅力が前面に押し出された演奏となっていて、とてもチャーミングな音楽となっていた。
ウィーンの薫りに包まれたシューベルトを、存分に楽しむことができた。そのような演奏でありました。
アンコールでは、シュトラウス・ファミリーによるポルカが2曲演奏されました。
いやはや、実に素晴らしかった。このような作品の演奏では、右に出るものがいない。まさに「我らの音楽」を披露してくれた、といった感を強くしたものでした。この演奏会を締めくくるに相応しい音楽が鳴り響いていた、とも言いたい。
特に、2曲目のシュネル・ポルカでのワクワク感は絶品でした。そして、ここでも、このグループの敏捷性の高さが、遺憾なく発揮されていたのでありました。






