トレヴィーノ&大阪フィルによる演奏会(ショスタコーヴィチの≪レニングラード≫ 他)の初日を聴いて
今日は、トレヴィーノ&大阪フィルによる演奏会の初日を聴いてきました。演目は、下記の2曲。
●ルーストン ≪奇妙な海≫(日本初演)
●ショスタコーヴィチ 交響曲第7番≪レニングラード≫
トレヴィーノは、1984年生まれのメキシコ系アメリカ人。今年40歳になる中堅の指揮者というところになりますが、イタリアのRAI国立響とレスピーギの「ローマ三部作」をレコーディングしていたり、2019年から首席指揮者を務めているスウェーデンのオーケストラのマルメ響とベートーヴェンの交響曲全集を制作していたりと、インターナショナルに活発な演奏活動を行っています。そんなトレヴィーノの実演に接するのは、本日が初めて。
私にとっては未知の指揮者であるだけに、どのような演奏に巡り会うことができるのであろうかと、ワクワクドキドキしながら会場に向かったものでした。しかも、ショスタコーヴィチの7番という大曲が相手だというところが、とても楽しみでした。
それでは、本日の演奏会をどのように聴いたのかについて書いてゆくことに致しましょう。
まずは、前半のルーストンから。
いやはや、素晴らしい演奏でありました。
作曲者のルーストンは、1971年生まれのシリア系アメリカ人とのこと。この作品は、マルメ響が委嘱したもので、2022年にトレヴィーノ&マルメ響が初演したようです。
そのようなことにも依るのでしょう、トレヴィーノは完全に手の内に収めているように思えました。初演者として、この作品の魅力を伝えて、広めていこうという使命感のようなものが滲み出ていたようにも思えた。
約20分間、切れ目なく演奏されますが、全体を概ね9つくらいのパートに分けることができそう。緩急の差が激しく、コントラストに富んだ音楽となっていました。例えば、第2部はブリテンの≪ピーター・グライムズ≫の「四つの海の間奏曲」の終曲を思わせるような、躍動感に富んでいて、うねるような音楽になっていた。この作品、≪奇妙な海≫という副題が付けられていて、海にまつわる詩から霊感を受けて作曲されたものだとプログラム冊子に記載されています。「四つの海の間奏曲」との類似性が窺えるのも、理解できるように思えます。
また、第4部か5部あたりには、ホルンによるフラッタータンギングが現れ、同じくブリテンの≪シンフォニア・ダ・レクエイム≫を想起させられるような音楽になっていた。かように、ひょっとするとルーストンはブリテンに傾倒しているのかもしれない。そんなふうに想像したものでした。
そのような造りをしていつつ、全曲を通じて、不穏な雰囲気が支配的であり、鬱屈とした音楽となっていました。不協和音が至る所で鳴り響き、緊張感の高い音楽でもあった。と言いつつも、旋律は比較的ハッキリとしていて、音楽の流れを確実に追うことができる。そして、変に威圧的な音楽でもなかった。
そのような作品を、トレヴィーノは、折り目正しく、かつ、生命力豊かに描き上げてゆく。とても鮮烈な演奏になってもいました。
瞠目すべきは、指揮の動き。日本初演ということで、大フィルの団員にとっても初めて演奏する曲になります。そうであるだけに、とても克明に振っていました。そうであるだけに、明瞭な佇まいをした演奏が展開されていた。
メインのショスタコーヴィチの7番に対して、「ほんのオマケ」といったものとして添えられた前プロなのだろう、などと高を括っていたのですが、聴き応え十分な作品であり、かつ、充実感タップリな演奏となっていて、大きな満足感を得ることできた20分間となりました。
さて、ここからはメインのショスタコーヴィチについて。
途轍もなく素晴らしい演奏が展開されていました。それは、前プロを聴いた時点で、ある程度予見できたのですが、その予想を越える演奏内容だった。
出だしは、頗る滑らかで、まろやかな演奏ぶり。全く威圧的な素振りがない。とは言え、決してひ弱な音楽づくりではなく、生命力に溢れた逞しさが備わっている。そのうえで、ゆとりを持って音楽を掻き鳴らしていたのであります。
前プロと同様に、頗る明瞭な演奏ぶりでした。音楽がベトつくようなこともない。そのような音楽づくりをベースにしながら、折り目正しくて、明朗な音楽が奏でられてゆく。
指揮の動きもまた、無駄がなくて、なおかつ、指揮者の意図することがストレートに伝わるようなものになっている。大フィルの団員も、頗る演奏しやすかったことでしょう。
注目すべきは、第1楽章での「チチンヴイヴイ」の箇所。速めのテンポでグイグイと進められていた。音楽が粘ったり、おどろおどろしくなったり、といったようなことが全くなく、颯爽と進められてゆく。しかも、この部分の出だしは、通常の演奏に増して、音量をかなり絞っていた。それこそ、遠くのほうから微かに響いてくる、といった雰囲気。それが、何度も繰り返されてゆくうちに、次第に膨れ上がっていって、大音量によるカタルシスを迎える。その持って行き方には、表面的な効果を狙うような意識は微塵も感じられなかった。聴き手を脅迫するような意図も、全く感じられない。それでいて、背筋が凍るような恐ろしさがあった。繰り返す様は、誠に愚直なものだった。しかもそこからは、楽譜に書かれていることを正確に音にしよう、といった誠実さが滲み出てもいた。
これは本当に、現実に演奏されている演奏なのだろうか。そんな疑問が湧いてくる演奏だった。夢か現かの世界に紛れ込んだような錯覚にも陥った。何度も何度も訪れている大阪フェスティバルホールが、壮麗な建造物に化しているような錯覚にも陥ったものでした。
(2016年にアクロス福岡で接した、バッティストーニ&九州交響楽団によるレオンカヴァルロの≪道化師≫の演奏会形式による演奏会でも、似たような思いをしたものでした。)
「音楽による大伽藍」が聳え立つような音楽が鳴り響いていた。そんなふうに言いたくなりました。
第2楽章での、ショスタコーヴィチ特有のシニカルな味わいにも、不足はなかった。音楽が律動的に運動する際には、十分に鮮烈な音楽が奏で上げられてもゆく。
(但し、Esクラの動きがスムーズさを欠いていて、演奏が少々乱れてしまったように思えた。)
第2楽章から第3楽章へは、アタッカで雪崩込んでいった。その第3楽章の前半部分は、本日のトレヴィーノによる演奏の中で、最も熱気を帯びた箇所だったと言えそう。頗る扇情的であり、スリリングな演奏になっていました。
但し、この楽章の中盤から後半にかけての緩やかなテンポによる抒情的な箇所は、緊張感に不足していて、音楽が弛緩していたように思えた。ここは、本日の演奏の中で、唯一、残念だった箇所になります。
最終楽章では、律動感に溢れた演奏が繰り広げられてゆく。そのうえで、クライマックスでは、音楽を高らかに歌い上げていき、輝かしく曲を閉じた。それはまさに、壮麗で、感興の豊かな音楽世界が築かれていた。
終演後の聴衆は、熱狂的に湧いていました。そのような反応に嘘偽りのない、聴き応え十分な演奏。そして、聴き手を惹きつける力の強大な演奏だった。そんなふうに言えそうです。
本日の2曲ともに、トレヴィーノの音楽性の豊かさや、手腕の確かさといったようなものが、そこここから滲み出ていた演奏が展開されていた。そんなふうに思えてなりません。
トレヴィーノの今後が、実に楽しみであります。