2017年ザルツブルク音楽祭での、ブロムシュテット&ウィーン・フィルによる演奏会について

2017年、夏季休暇を利用してヨーロッパを旅行してきました。一番の目的は、ザルツブルク音楽祭での演奏を聴くこと。ザルツブルクで触れることのできた音楽会は、下記の8つでありました。
<オーケストラ演奏会>
●ブロムシュテット&ウィーン・フィル
●バレンボイム&ウェスト-イースト・ヴィヴァン管
<オペラ>
●ショスタコーヴィチ ≪ムツェンスク郡のマクベス夫人≫ M・ヤンソンス&ウィーン・フィル ムラヴェーヴァ(シュテンメがキャンセル)
●ベルク ≪ヴォツェック≫ ユロフスキー&ウィーン・フィル ゲルネ
●ヘンデル ≪アリオダンテ≫ カプアーノ&モナコ公の音楽家たち バルトリ
<リサイタル>
●ポリーニ ピアノ・リサイタル
●内田光子 ピアノ・リサイタル
●ゲルネ&トリフォノフ リート・リサイタル

ザルツブルク音楽祭以外にも、ルツェルン音楽祭でハイティンク&ヨーロッパ室内管による音楽会に触れたり、ユングフラウへの登山列車に乗ったりと、充実度のとても高い旅行でありました。
そのような中でも、白眉であったのが、ブロムシュテット&ウィーン・フィルによる演奏会。そこから感じ取れたことを、演奏会翌日にファイスブックに投稿していたのですが、その投稿をブログにも転載を、とのご要望を受けましたので、こちらに転載させて頂きます。

【フェイスブックからの転載】
今回の旅行の最後の演奏会、ブロムシュテット&ウィーン・フィルを聴いてきました。曲目は、下記の通りであります。
R・シュトラウス≪メタモルフォーゼン≫
ブルックナー交響曲第7番

ブロムシュテットの本領が期待できる、実に素晴らしいプログラムですよね。その結果はどうであったかと言いますと、予想や期待を遥かに上回る素晴らしい内容でありました。凄すぎました。鳥肌ものでありました。この世のものとは思えませんでした。
今年90歳を迎えたブロムシュテット翁は、2曲ともに椅子に座っての指揮でありました。そして、棒を持たずに素手で振っていました。その手の動きはと言いますと、実に克明。今、ブロムシュテットの身体の中で、どのような音楽が刻まれているのかが、手に取るように解る指揮ぶり。謹厳実直な彼の性格が如実に姿に表されているような指揮ぶり。
そこから紡ぎ出されてくるものは、気品が高くって、ニュアンス豊かで、壮大なスケールを持った、神々しいまでの音楽なのでした。

それでは、まずはR・シュトラウスのほうから、もう少し詳しく述べていきたいと思います。
なんとも折り目正しくて格調の高い音楽でありました。規則正しくって、堅実な歩みで進められてゆく音楽。とりわけ、曲の2/3くらいのところまでは、そのような音楽でありました。 音楽は4分の4拍子で始まり、途中で8分の6拍子に変わり、全体の約2/3ほど進んだところで再度4分の4拍子に戻ります。私が今、触れようとしているのは、その4分の4拍子に戻るまでの、作品の約2/3の部分のことなのであります。
ブロムシュテットは、やや早めのテンポを崩さず、変なアゴーギクも殆ど使わずに(ときおりテンポを揺らしていましたが、それは必要最低限な範囲)、サクサクと歩みを進めてゆくのであります。そんなにサクサク行って良いの、って思うほどに。但し、その折り目正しさの中に、暖かさや優しさや滋味深さが含まれていて、実に魅力的な音楽になっているのであります。まさにケレン味のない音楽。
その間の音楽は、手書きしたものを写真に撮った4つの四分音符の音型(この音型のことを「ウン、ター、ター、ター、ター」と書くことにしましょう)が、これでもかとばかりに頻繁に出てきます。ブロムシュテットは、この「ウン、ター、ター、ター、ター」を、実にニュアンス豊かに再現してくれていました。時に優しく、時に勇ましく、時に悲しげに、時に荒々しく。しかも、インテンポで、音楽が弛緩することなく、それぞれの箇所での性格を鮮やかに描き分けてゆく。
そして、ここでキーになってくるのがウィーン・フィルなのであります。R・シュトラウスの音楽を自家薬籠のものにしているウィーン・フィルのメンバー達。≪メタモルフォーゼン≫という作品は、どのように弾かれるべきなのかを熟知している彼らは、例えば「ウン、ター、ター、ター、ター」もそれぞれの箇所でどのように弾くべきかをわきまえている訳であって、ブロムシュテットの志向する音楽に血と肉を与えてゆくのであります。それはもう、聴いていて惚れ惚れするほどに。
よっしゃ、ここの「ウン、ター、ター、ター、ター」はこの音圧でこのスピード感で弾きまっせ。おっと、こちらの「ウン、ター、ター、ター、ター」ですね。こちらは物憂げな感じで弾かなきゃだめなんだよね。
そんな、なんとも頼もしいバックアップを彼らは行なっているのであります。
これは単なる一例であって、曲の随所でニュアンス豊かな音楽を奏でてゆくウィーン・フィルの23人の弦楽奏者達。しかも、音色は限りなく艶やかで柔らかく、美しい。
音楽は淡々と、しかしながら滋味深く進んでいくのですが、その先にはとんでもないカタルシスが待っていたのであります。
8分の6拍子から4分の4拍子に戻った最後の約1/3の箇所。ここでテンポをガタッと落として、濃厚な味付けを施してゆくブロムシュテット。規則正しさや、折り目正しさをかなぐり捨てて、没我的に音楽の世界にのめり込んでいく。沈鬱としていながら、激情的でもある。誠に粘着力の強い音楽。ブロムシュテットが≪メタモルフォーゼン≫で言いたかったのは、ここの部分であったのです。だからこそ、その対比を付けるために中盤まではサラサラとした音楽づくりをしていたのです。
最初から、この粘着力で全曲を押し通したならば聴き手は辟易としてしまったはずであります。
これぞ設計の妙だと言えましょう。そして、これぞ音楽に対する感性の勝利。
弦楽器のみによって奏でられる作品でありながら、単色ではなく華麗で煌びやかで色彩的な色合いを見せてくれていたのは、これもまたウィーン・フィルによる功績が大だと言えましょう。そこには、めくるめくような、更に言えば渦巻くような官能美があったのであります。

R・シュトラウスだけでも、かなり長々と書いてしまいました。さて、いよいよメインのブルックナーであります。
なんと自然で、優美で、峻厳で、雄大なブルックナーであったことでしょう。
ここで、「峻厳」という言葉を使うのに、いささか躊躇がありました。ブロムシュテットが提示してくれたブルックナーは、優しさに満ちていたのだから。しかし、彫りの深い厳しさを兼ね備えていたのは確かであります。そんな厳しさを根底に備えつつも、自然で優美で雄大な世界を作り上げていったブロムシュテット&ウィーン・フィル。
彼らがやっていたことは、ただひたすらにスコアに書かれていることを、作品自らが望んでいる姿で、誠実に、そして心を込めて「現実の音にする」ことだけでありました。そう、泰然自若に。その結果として現れたのは、壮麗で、そして美しさの限りを尽くした、神々しいまでのブルックナーの世界。
もうここでは、細かいことは言わないことに致しましょう。何もかもが、素晴らし過ぎた演奏でありました。
静と動のバランスが絶妙であったとか、随所に見せるアゴーギクが作品が望んでいる姿そのものであったとか、言い出したらキリがありません。
ただそんな中でも、ウィーン・フィルの美しさが壮絶であったことには触れたいと思います。
艶やかな弦楽器、華やかな木管楽器、厚みがありながら柔らかさもある金管楽器。これらがトゥッティで束になって鳴ったときの、豊麗で、威厳があって、煌びやかで、伸びやかで、雄大で、しっとりとしていて、艶やかな響きはもう、何物にも代え難い、私の耳と心を根こそぎ奪ってしまうような魅力を蔵していたのであります。

今回の旅行の最後の最後で出会えた、絶品の演奏会。この演奏会に接することできただけでもヨーロッパに来た甲斐があった。そんな演奏会でありました。