下野竜也さん&兵庫芸術文化センター管とブルネロによる演奏会の最終日を聴いて

今日は、下野竜也さん&兵庫芸術文化センター管(通称:PACオケ)による演奏会の最終日を聴いてきました。
演目は下記の3曲になります。
●ドヴォルザーク チェロ協奏曲(独奏:ブルネロ)
~休 憩~
●ショスタコーヴィチ ≪弦楽四重奏のための2つの小品≫より第1曲「エレジー」
●伊福部昭 ≪シンフォニア・タプカーラ≫

一番のお目当ては、ドヴォルザークのチェロ協奏曲を弾くブルネロ。パッパーノ&ローマ聖チェチーリア管と同曲を録音していますが、そこでは、艶やかでありつつも思索的でストイックな演奏が展開されていました。それでいて、イタリア人ならではの歌心に満ちていた。なおかつ、決してグラマラスな音楽づくりではないものの、筋肉質な骨格の太さのようなものが感じられた。そのうえで、テクニックの切れがありながらも、カミソリのような鋭利な音楽づくりを目指すのではなく、斧で作品に切り込んでゆくような重みを持った音楽を奏で上げていた。
本日は、どのようなドヴォルザークを聞かせてくれるのだろうか。さぞ素晴らしい演奏になるであろうと、大いに期待しながら会場に向かったものでした。

そのブルネロをサポートするのは下野さん。下野さんは、4ヶ月前のPACオケとのスメタナの≪わが祖国≫で、あまりに素晴らしい演奏を繰り広げてくれていました。私は、そこでの演奏を聴いて、次のように書いています。
「音楽の進行が、頗る逞しかった。音楽がしなやかに、かつ、豊かに息づいていた。しかも、こけおどしな表情が全くない。作品が望んでいる姿を描き上げようとした結果が、このような演奏になった、と言いたくなる演奏でありました。そのうえで、雄渾という表現がピッタリな演奏が繰り広げられていった。」
更には、このようにも書いたものでした。
「しかも、音楽の動きや、運動性の発露や、といったものが、作品の内側から滲み出ているかのように、頗る自然だった。本日の演奏で、最も感嘆したのは、まさにここの部分でありました。であるが故に、切れば血が噴き出すかのような、バイタリティに溢れた演奏を繰り広げることができていたのだ、と。そして、生き生きと、かつ、しなやかに息づいている音楽を奏で上げることが可能となった。音楽が、至る所で唸りを上げることにもなっていた。もっと言えば、作品が、意志を持って躍動していた、とも思えてきた。
これらの点については、おそらく、本日の≪わが祖国≫での演奏態度がどうだった、といったことを越えて、下野さんの演奏家としての「土台」を成すものとして、体に染み付いていることだと言えるように思えます。下野さんは既に、そのような「すべ」を完全に手の内に収めている。いやはや、素晴らしい指揮者になったものだと言いたくなります。」
本日のドヴォルザークのチェロ協奏曲でも、4ヶ月前の≪わが祖国≫と同様の演奏を聞かせてくれるのではないだろうかと、大いに期待したものでした。
また、伊福部昭の≪シンフォニア・タプカーラ≫と、ショスタコーヴィチも、とても楽しみだった。きっと、逞しい演奏を繰り広げてくれることだろう、と。

それでは、本日の演奏会をどのように聴いたのかについて書いてゆくことに致しましょう。まずは、前半のドヴォルザークからであります。
何はさておき、下野さんの指揮が素晴らしかった。世界的チェリストのブルネロを喰ってしまっていたと言いたい。
(ちなみに、プログラム冊子には、下野さんがブルネロについて「素晴らしい音楽家である彼から、多くを学びたいと思います」と語っていたことが紹介されています。)
冒頭のオケによる提示部から、雄大にして逞しい音楽を奏で上げていた。しかも、音楽を自在に、かつ、作品が望んでいる通りに伸縮させてゆく。その呼吸の見事さたるや、惚れ惚れするほどでありました。与えられてゆく表情も、作品が望む通りのものだったと言いたい。
例えば、第1楽章の19小節目からの3小節間、ヴァイオリン群には2拍目にfzが付いているのですが、それを誠実に実行してゆく。そのことによって、目鼻立ちがクッキリとしてきて、かつ、音楽がシッカリと抉られてゆく。楽譜にfzが付いているのですから、それを実行するのは当たり前のこと、というふうに考えられるかもしれませんが、そこには下野さんの強い意志が働いていて、かつ、fzの意味を明確に把握したうえで実行していた、というふうに思えてならなかったのであります。とても入念な演奏となっていた。更には、演奏家としての誠実さと責任感が滲み出ていたとも言いたい。
これはほんの一例で、常にこのような態度で作品に対峙していたと言えそうな下野さん。それ故に、作品が持つ生命力を忠実に引き出しながら、充実感いっぱいな音楽を奏で上げてくれていたのだ。そんなふうにも思えます。
そのような下野さんの音楽づくりで充満していた充実の提示部を経て、いよいよブルネロが登場した訳ですが、そのソロは霞んでしまっていたと思われて仕方がありませんでした。そのうち、チェロのソロに心惹かれてゆくのだろうと思いながら聴き進んでゆくも、ほぼ終始、下野さんによる音楽づくりに私の神経と視線を集中させることになったのでもありました。
ちなみに、本日のPACオケは、ホルンとクラリネットのトップが、とんでもなく上手かった。音が澄んでいて、まろやか。あの2人、本当に素晴らしかった。
クラリネットは名古屋フィルの首席奏者がゲストで招かれていたようですが、ホルンのトップを吹いていた女性は正規団員だったようです。今年の9月に入団した新人奏者なのでしょう。今後の彼女の演奏が楽しみであります。ちなみに、≪シンフォニア・タプカーラ≫でのソロも見事でありました。また、ソロでなくとも、ほんの些細な箇所でホルンが顔を出すと、思わず耳が奪われるような意味深い音を出してくれていました。
さて、主役のブルネロでありますが、音楽を自在に伸縮させながら、情感タップリに奏で上げていました。それにピッタリと付けてゆく下野さんも、相当なもの。きっと、即興的に伸縮させた箇所もあったのでしょうが、臨機応変に、かつ、ビシッと合わせてゆく下野さん。この辺りにも、下野さんの音楽センスの高さや、音楽の進行を嗅ぎ分ける嗅覚の鋭さや、といったものが感じられたものです。
ブルネロは、第2楽章での郷愁に満ちた演奏ぶりが、とりわけ素晴らしかった。とは言え、この楽章でも、下野さんによる音楽づくりの方に、私はより大きく惹かれたのですが。
また、最終楽章では、コンサートマスターの方を向いて、しきりにオケを鼓舞していました。これは、最終楽章が始まった直後からのこと。その前の2つの楽章でも同様の素振りを見せてはいたのですが、最終楽章では、その頻度が高かった。ブルネロ、かなり気合いが入っていたのでしょう。実際に、ブルネロのソロは、最終楽章ではかなり雄渾なものとなっていました。
なお、本日のコンマスは、白井圭さんがゲストで招かれていました。最終楽章の後半には、独奏チェロと丁々発止の火花を散らすようなソロがありますが、決して力み込むようなことはないものの、美しさと力強さとを兼ね備えた素晴らしいソロを聞かせてくれていました。
ということで、ブルネロは期待に届かなかった(と言いますか、下野さんがあまりに素晴らしくて影の薄いものになっていた)といった嫌いがあったものの、素晴らしい音楽を聴いたという充実感の大きな演奏でありました。

ブルネロによるアンコールは、≪ハヴン・ハヴン≫という曲。オーケストラのチェロとコントラバスが、ほんの微かな音で同じ音をずっと伸ばしている上で、独奏チェロが旋律を奏でてゆく、という姿をした音楽でありました。
その独奏チェロもまた、終始弱音で弾いてゆく。しかも、ゆったりと、そしてハイポジションで、玄妙に弾いてゆく。その雰囲気は、まるでアンデス地方の民族音楽のようでした。そう、何となく「インカ」の香りが漂ってきた。そのような音楽を、ジックリと、かつ、しみじみと聞かせてくれたブルネロ。不思議な感覚に囚われた音楽でありました。
本日のプログラムは、民族性の強い作品を並べたものになっています。そのようなこともあってのアンコールの選曲だったのでしょう。

ここからは、後半について書いてゆきましょう。
後半の聴き物は、何と言いましても≪タプカーラ≫であります。凄演でありました。まさに「血湧き肉躍る」といった演奏だった。
下野さんの音楽づくりは、幹がシッカリとしたもの。そして、肉付きが頗る良い。更には、細部には血が通っている。そのうえで、音楽が躍動してゆく。馬力もある。このような要素は、まさに≪タプカーラ≫に必要不可欠なものだと言えましょう。
しかも、音楽がシッカリと呼吸している。そして、音楽がどんなに高揚しても、こけおどしな音楽にならない。むしろ、端正な出で立ちをしていた。ただ単に浮かれるようなことはなく、地に足が付いている演奏。そのようなこともあって、丹念に音楽を紡ぎ上げていきながらも、凄まじいまでの生命力を蓄えた状態で音楽が前進してゆくこととなっていた。
しかも、第2楽章での抒情性にも不足はない。音楽が痩せるようなこともなく、豊かに息づいていた。
そんなこんなによって、作品が要求している通りに「実際の音」に置き換えられていたと言いたい。しかも、逞しい生命力が与えられながら、音楽が鳴り響いていた。
会場は興奮の坩堝と化して、演奏が終わると熱狂的に沸いた。そのような反応が極めて正当だと思える凄演でありました。
ショスタコーヴィチは、弦楽器のみによる5分ほどの短い作品。こちらでも、息遣いの豊かな演奏が繰り広げられていました。

何はともあれ、下野さんの素晴らしさに胸を撃ち抜かれた、という心境になった本日の演奏会。
4ヶ月前に聴いた≪わが祖国≫からも感じられたのですが、下野さんはきっともう、どの作品を演奏してもハズレはないだろう、と思えてきてなりませんでした。それだけの「すべ」を会得されたのだ。そして、音楽への誠実な態度からも、ハズレとなるような演奏を聴衆に届けることはないだろう、と。
日本の楽壇には、こんなにも素晴らしい指揮者がいる。そのことは、とても幸せなことなのだ。そのように、声を大にして言いたい。