上岡敏之さん&京都市交響楽団(ブルックナーの交響曲第6番 他)による演奏会の第2日目を聴いて

今日は、上岡敏之さん&京都市交響楽団による演奏会を聴いてきました。演目は、下記の2曲。
●ワーグナー ≪トリスタンとイゾルデ≫前奏曲と愛の死
●ブルックナー 交響曲第6番
上岡さんによるブルックナーの6番は、2018年4月に、横浜みなとみらいホールで新日本フィルを指揮した演奏会で聴いています。その演奏会では、前半でケフェレックをソリストに迎えてモーツァルトのピアノ協奏曲第24番も演奏されている。
そこでの演奏について、フェイスブックに投稿していますが、そこから抜粋をさせて頂きます。
ケフェレックは、上岡さんの音楽に飲み込まれてしまっていたように感じられたのであります。上岡さんの「アクの強い音楽」に、ケフェレックの繊細さがかき消されたようにも。
また、ブルックナーの交響曲第6番での演奏からの印象としては、上岡さんの音楽の特徴は、音を厚塗りするところにあるのではないだろうかと感じられた。今日のモーツァルトとブルックナーを聴いた限りでは、そのように思いました。厚塗りであり、かつ、余白ができないように、べったりとキャンバスに音を塗り込んでゆく。そういう意味では、タイプは違いますが、カラヤンやチェリビダッケに似たようなところが感じられた。と言いましても、カラヤンのようなスマートさは無いのですが。
モーツァルトを聴いた後に「おどろおどろしいブルックナーになるのではないだろうか」と予想したのですが、それは、ほんの僅か的中し、概ね外れたように思われました。
音響的には、誠に優れたブルックナー演奏であっと思います。ブルックナーの音楽に対してよく言われる「オルガンのような響き」を随所に聴くことのできた演奏。分厚くて、壮麗。
その一方で、歌心があまり感じられなかったようにも思うのです。厚塗りのレガート奏法を主体としていますので、運動性や流動性が犠牲になっていたようにも思える。そう、全体にノッペリとしていたように思えたのであります。更に言えば、粘着力も大きい。大きく起伏を取りながら、個々の楽想への対比も明確に付けた演奏になっていつつも、それが立体感に繋がらずに、表情が一面的であったように感じられたのであります。
とは言うものの、外面の完成度は高かったと言えるのではないでしょうか。面白くもあった。そうであるだけに、もっと流動性があれば、もっと私の心に響いたのであろうな、と感じた次第であります。
また、直近での上岡さんによる演奏会では、2023年11月に、大阪フィルを指揮しての ≪ばらの騎士≫組曲や≪町人貴族≫や、ツェムリンスキーの作品などで構成されたプログラムを聴いています。
そこでの≪ばらの騎士≫組曲での演奏について、次のように書いています。
これはもう、上岡さんの色で染め上げられた演奏だったと言えそう。コッテリ味で、しつこいまでに粘着質でもありました。と言いつつも、全てがそうではなく、箇所によっては、ツェムリンスキーで感じられた、しなやかさや、呼吸感の絶妙さに魅せられはした。しかしながら、粘着質な音楽づくりがあまりに強烈なため、そちらでの印象に引っ張られがちになります。
冒頭のホルンによるテーマからして、4つ目と5つ目の音を伸ばしぎみにして、音楽に個性を与える。その様には、あざとさが感じられた。妙に気取っているようにも感じられ、それが鼻についた。
鼻につくと言えば、第2ワルツの箇所で、過剰に押したり引いたりといった表情付けを施したり、思いっ切り抑揚を付けたりと、しつこいこと夥しかった。表現意欲旺盛な演奏が繰り広げられていたと言えましょう。
上岡さんが、卓越した表現者であることはよく解ります。アイディアも、次々と湧いてくるのでしょう。しかしながら、「過ぎたるは、及ばざるが如し」という言葉を思い出しながら聴いていたものでした。
また、濃厚な表現が頻出しながらも、音楽から豊穣さが沸き上がってこない。このことは、前半の≪町人貴族≫からも感じられたこと。
ナルシストな面もあるのではないでしょうか。自分に酔っているように思えた。そんなこんなもあって、音楽にわざとらしさが現れて、豊かな生命力を獲得するに至っていなかったのではないだろうか。そんなふうに思えてなりませんでした。
なるほど、聴いていて面白くはあった。ここまでやるのか(更に言えば、ここまでできるのか)、と驚かされもした。しかしながら、策に溺れ、作品を歪めていた≪ばらの騎士≫となっていた。個人的には、そんなふうに思えてなりませんでした。
かように、あまり良い印象のない上岡さん。本日は、どのような演奏を繰り広げてくれることでしょうか。8年前に聴いた、新日本フィルとのブルックナーの6番での印象から、変わることはあるのでしょうか。そんな思いに駆られながら、期待と不安とが交錯した気分で会場に向かったものでした。
それでは、本日の演奏会をどのように聴いたのかについて、書いてゆくことに致します。

まずは、前半の≪トリスタン≫について。
想像を絶する遅さで演奏されていきました。本日のプレトークは音楽評論家の池田卓夫氏が務めておられたのですが、昨日は25分ほどを掛けての演奏だったとのこと。本日も、ほぼ同じ演奏時間だったことでしょう。
(ちなみに、昨日とブルックナーの6番は69分ほど掛かっていたようで、これまた超スローなテンポだったようです。)
その≪トリスタン≫でありますが、あまりに遅いテンポであったが故に、オケのメンバーに過度な緊張を強いられていたよう。そのために、管楽器の音の出が揃わなかったり、音が途中でかすれてしまったり、といったことがしばしば起きていた。
そのようなこともさることながら、私には音楽が弛緩してしまっていたと思えてならなかった。なぜ、もっと前に進もうとしないのか。そのことが不思議でならない場面が、至るところで見受けられた。
なるほど、作品を音でタップリと塗り上げていきたいのでしょう。その点では、これまでに実演で接してきた上岡さんの演奏と、何ら変わらないものでありました。ある種、コッテリとした演奏でもあった。
とは言え、全面的にコッテリ味の演奏だったとも言い切れない。そう、さほどカロリーの高い演奏になっていた訳ではなかったのであります。それよりも、玄妙な世界を現出させたい、といった意図が強く感じられた。
ほんの少しですが、具体的に書いてゆくことに致します。
冒頭の、チェロが旋律を奏で、それを受けて木管楽器群が半音階によるハーモニーを鳴らす。その後には、休符によってオケ全体が音を鳴らすことをやめる。同じようなことが3度繰り替えされる(但し、回を重ねるごとに、音が少しずつ多くなってゆく)のですが、ここでの休符たるや、異常なまでに長く取られていました。そのことによって、実にもったいぶった音楽となっていた。上岡さんとしては、このことによって霊妙な音楽を出現させようと意図したのでしょうが、あまりにオーバーに過ぎたように思えてならなかった。わざとらしくも思えた。
この、スフォルツァンドとピュー・フォルテの指示を伴った力強い音が奏でられるまでの最初の16小節ほどに、いったいどれだけ長い時間を費やしたことでありましょう。しかも、その間の演奏には、ピンと張り詰めた緊張感、といったものは希薄だった。何と言いましょうか、無駄に神妙な音楽になっていた。私には、そのように思えてならなかった。
また、オーバーに過ぎたと思えたのが、「愛の死」の最後の小節に入る箇所。ここでは、オーボエのみがタイで音が繋がっていて、オーボエ以外の楽器は、いったん音が切れます。その、オーボエのみが鳴らしている音を、極端に長く取っていた。すなわち、最後から2小節前と、最後の小節との間に、極端に長い間を取っていたのであります。それはもう、永遠に、最後の小節に入ることがないのではなかろうか、と思えるほどに。最後の小節に入ることへの「ためらい」からなのでありましょうが、これまた、実にわざとらしい音楽づくりでありました。
更には、この作品に特徴的な「押しては引く波」が感じられなかったことが、残念でなりませんでした。と言うよりも、そのことが私には許せなかった。と言いますのも、この作品を演奏する意味の殆どが、失われてしまうように思われるので。特に、前奏曲の真ん中辺り、”Niemals eilen! Eher breiter werden!”と指示され、更には”Im Tempo bleiben!”と指示される箇所において、このことを強く感じたものでした。
また、ちょっとした個性的かつ重要な動きが、全体の中に埋没していた。遅いテンポを採れば、むしろ、このような動きがクッキリと手に取るように表現できるように思われるものなのですが、そのことが実現し切れていなかったことが、これまた不思議でならなかった。
そのような中でも、前奏曲で最高潮を迎える箇所(ヴァイオリンが急激に下降してゆく箇所)のみは、テンポを上げて扇情的な音楽になっていました。この箇所で、このような味わいを出すために、ノッペリとした演奏を進めてきたのだろうか。そんなふうに勘ぐってしまいました。
ただ、この「前奏曲と愛の死」を聴き終えようとしたその時、上岡さんが語りかけてきた長大な叙事詩に付き合った、その終焉を迎えることになるのだな、という感慨が押し寄せてきた。そのような感懐を持つことになった自分に、驚きを覚えたものでした。
さて、ここからはメインのブルックナーについて。
やはり遅いテンポを基調としながらの演奏でありました。本日も、70分ほどを掛けての演奏となっていたようです。
とは言うものの、全体的に遅い訳ではありませんでした。例えば、出だしの部分などは、平均的なテンポが採られていた。
但し、ブルックナー自身が遅いテンポを指示した箇所では、ガクンとテンポを落としてゆく。その最たるものが第2楽章でありました。それはまさに牛歩。なかなか音楽が前に進んでいかない。そのためにまどろっこしいこと夥しかった。
更には、全体的にノッペリとした演奏が繰り広げられていった。その点では、8年前の演奏での印象が甦ってくるものとなっていました。
但し、8年前の演奏と異なるのは、流動性や運動性に乏しい、といった印象をあまり受けなかった点。なるほど、音楽がうねりながら進んでゆく、といった様態を示すことはなかったものの、律動感が完全に犠牲になっていた、というほどではありませんでした。この辺りは、前半の≪トリスタン≫が、あまりに異形の演奏となっていたために、私の中に免疫ができたが故なのかもしれないのですが。
そして、8年前の演奏と同様に、音響的には見事なものとなっていました。流麗で壮麗でもあった。レガートを多用しながらの滑らかにな流れに乗って奏で上げられてゆくブルックナーとなっていました。
また、ちょっとした第2ヴァイオリンのピチカートや、コントラバスのピチカートなどが印象的に強調されていた点には、上岡さんのスコアリーディングの深さが感じられたものでした。
更には、3年前の大阪フィルとの演奏で感じられた個性的なアイディア満載による「あざとさ」はあまり感じられなかった。それよりももっと、真摯な音楽づくりが為されていたように思えたのであります。と言いましょうか、発作のような「思いつき」で音楽づくりを施してゆくのではなく、信念をもって演奏に当たっていた、といった印象を受けた。
ということで、聴くべきところもあったブルックナーの6番ではありましたが、総じて、じれったさを覚える演奏でありました。もっと、屈託なく、ストレートに演奏してくれないものだろうか。そんなふうにも思えたものでした。
私には付いて行けない演奏だった、というのが正直なところであります。





