ネマニャ・ラドゥロヴィチ&ドゥーブル・サンスの西宮公演(ベートーヴェンの≪クロイツェル≫他)を聴いて

今日は、兵庫県立芸術文化センターでネマニャ・ラドゥロヴィチ&ドゥーブル・サンスの演奏会を聴いてきました。演目は、下記の3曲。
●ベートーヴェン ≪クロイツェル≫(ヴァイオリン・ソロと弦楽合奏版 ネマニャ編曲)
~休憩~
●バッハ 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番より≪シャコンヌ≫
●バッハ ヴァイオリン協奏曲 BWV 1052R(原曲:チェンバロ協奏曲)

「パガニーニの再来」などと評されるヴァイオリンの鬼才、ネマニャ。1985年にセルビアで生まれ、自国やドイツで学んだ後に、パリ国立高等音楽院に入学している。今年、40歳を迎えることになります。
そんなネマニャが、出身地である旧ユーゴスラビアと第2の故郷とも言えるフランスの音楽仲間と結成し、自身がリーダー兼ソリストを務めるドゥーブル・サンスとともに来日しての演奏会。

ネマニャの特徴は、奔放な演奏を繰り広げるところにあると言えましょう。自分が感じた音楽を、ストレートに表現する。その分、とても濃厚で、激情的で、艶っぽい音楽を聞かせてくれる。そして、感受性の豊かさが、そこここから聴き取ることができる。
と言いましても、決して破天荒な音楽になるようなことはない。或いは、恣意的な演奏になっているとも思えない。自分に正直な音楽づくりを示してくれるヴァイオリニストだと言えそう。なるほど、作品の持っている息遣いを若干誇張しているような感じを受けないでもないですが、それは度を越したものではない。むしろ、そこにネマニャの感受性の豊かさを感じさせてくれる。
更に言えば、荒っぽい演奏を繰り広げる訳でもありません。しかも、テクニックがしっかりとしていて、音色は誠に美しい。音の線は、太からず細からず。そのうえで、流れの滑らかな音楽を奏で上げてくれる。その音楽は、伸びやかにして闊達なものとなることが多い。
以上が、音盤を通じてのネマニャの印象ですが、実演に触れるのは今回が初めてになります。

さて、そのようなネマニャが、前半では、ベートーヴェンの≪クロイツェル≫を、自身の編曲に依るヴァイオリン・ソロと弦楽合奏版で演奏する。後半の最初に弾くバッハの≪シャコンヌ≫は、原曲通りの無伴奏ヴァイオリンによる演奏。その後、バッハのチェンバロ協奏曲をヴァイオリン協奏曲に編曲された作品が演奏される。
ちょっと意表を衝く演目となっていますが、編曲物を織り交ぜながらベートーヴェンとバッハを採り上げるという、筋の通ったプログラムになっていると言えそう。
はたして、どのような音楽に出会うことができるのだろうか。ドキドキワクワクしながら、会場に向かったものでした。

それでは、本日の演奏をどのように聴いたのかについて、書いてゆくことに致しましょう。

まずは前半の≪クロイツェル≫から。
これまで音盤で聴いていた通りのネマニャだったと言いましょうか、奔放な演奏ぶりでありました。敏捷性が高くもある。そして、エッジが効いている。
弱音を強調する場面が多く、その分、音楽がミステリアスな雰囲気を帯びることがしばしば。なるほど、その表情は大袈裟であり、聴きようによっては恣意的だとも言えそうですが、決して、作品の性格を逸脱したものではないように思えまた。誇張はあるが、逸脱はしていない。
そのうえで、弦楽合奏が相手ということで、第1楽章は、嵐の音楽、といった性質がより一層強くなっていたように思えたものでした。音楽に「音擦れ」するような感覚が生まれていて、それが強風を思わせたのでした。
そして、なんともドラマティックな音楽になっていた。表情が多彩でもあった。
そのうえで、軽やかに疾駆するような音楽になっていた。弓に圧力をあまり掛けずに、軽快に、なおかつ、速めのスピードで弓を走らせることの多かったネマニャ。そのことが、敏捷性の高さを生み出してくれていたのでありましょう。濃密な表情をしていつつも、粘るような音楽になることがなかった。音楽のフォルムが、スリムで、スッキリとしたものとなってもいた。
しかも、ネマニャの音色は、頗る艶やか。そのことが、感覚的な美しさを強調してくれることとなっていた。
その一方で、例えば第1楽章の第2主題が過ぎての経過部、第3主題とも言えそうな旋律の後ろで独奏ヴァイオリンがピチカートを奏でる箇所がありますが(このモチーフは、展開部で重要な役割を果たす)、そのピチカートが弦楽合奏に掻き消されてハッキリと聞こえない。耳を澄まして聞いて、かろうじて聞こえるといった程度。あのピチカートは、鬼気迫るような表情を帯びているだけに、ハッキリと聞こえなかったのは寂しかった。また、第1楽章の結びの箇所で、独奏ヴァイオリンがピアノとユニゾンで旋律を扇情的に奏でるシーンでは、弦楽合奏が相手のため、独奏ヴァイオリンが完全に埋没してしまっていた。これもまた、残念でした。この辺りは、弦楽合奏に写し替えたことによる弊害だったと言いたい。
また、弦楽合奏のため、ピアノと比べると音の出だしが鋭角的になりづらくて、丸みを帯びていたのも、この演奏におけるネマニャの音楽づくりには相応しいものだと言えそうにない。この点についても、今回の編曲版の残念なところでありました。
なお、第2楽章での弱音を駆使しながら、繊細にして鮮やかに駆け巡るネマニャの演奏ぶりは、なんとも見事でありました。聴き手も、耳をそばだてながら音楽世界に没入してゆく、といった音楽になっていた。なるほど、かなり人工的な表情ではありましたが、音楽に吸い込まれてゆくようであった。これが、弦楽合奏版ではなく、ピアノが相手だったら、どんな音楽になっていたのだろう。もう少し、常識的な演奏になっていたのではないだろうか。そんなふうにも想像しながら聴いていたものでした。
やはり、ピアノとの演奏というオリジナルの形で聴きたかった、というのが本音ではあります。とは言いつつも、ネマニャの個性をシッカリと味わうことができた演奏でありました。なおかつ、なんとも興味深く聴くことのできた演奏でありました。

それでは、ここからは後半について。
≪シャコンヌ≫は、この作品ならではの厳粛な雰囲気に不足していたように思えてなりませんでした。なるほど、前半での≪クロイツェル≫と同様に、弱音が多用されていて、それ故に、内省的で、瞑想的で、といった表情が支配的な音楽になっていました。なおかつ、音色は艶やか。そして、自在感に満ちた演奏が繰り広げられていた。
その一方で、≪シャコンヌ≫に特有な重層的な音楽世界、といったもの現出し切れていなかったように思えたのです。表情は多彩なのですが、それが取って付けたような印象を抱くに過ぎないような音楽になっていたようにも思えた。
ネマニャの演奏は、総じて、自分に正直な音楽づくりが為されていると思うのですが、それが表面的な効果しか生まなかった演奏だった。なおかつ、感覚的な音楽になってしまっていた。そんなふうにも思えたのでした。
続くヴァイオリン協奏曲は、≪シャコンヌ≫のような「孤高の音楽」と呼ぶものとは異なる音楽だと言えましょう。その分だけ、ネマニャの闊達な演奏ぶりを、この作品はシッカリと受け止めてくれていたように思えます。
特に、第1楽章の後半、楽章が終わったかと思わせておいて、実はまだまだ続く(それは、独奏ヴァイオリンによって奏で上げられる)、といった箇所での、悪戯っ気タップリな演奏ぶりは、なんとも印象的なものとなっていました。しかも、そこでの独奏ヴァイオリンは、怒涛の勢いで弾かれてゆく。それはもう、目くるめくような音楽となっていました。
この協奏曲でも、弱音を強調しながら、繊細にして瞑想的な音楽を奏で上げてゆく箇所が多かった。しかも、敏捷性が高い。過度にエキセントリックな訳ではないのに、音楽のエッジが立っている。このような演奏ぶりにおいては、まさに、ネマニャの独壇場だと言えましょう。そして、そのような音楽づくりが、ピタッと嵌っていた演奏だったと思えました。
しかも、疾駆感に満ちていた。その様は、ヴィヴァルディの≪四季≫のうちの「冬」の最終楽章に通じるものだったと思えた。アンコールで、「冬」の最終楽章を演奏してくれれば、今鳴り響いているバッハでの演奏の空気が、そのまま繋がってゆくのでは、などと想像しながら聴いていました。季節も冬なので、時節柄としてもピッタリだと思えたのでした。

そのアンコールですが、添付の3曲が演奏されました。残念ながら、ヴィヴァルディの「冬」の最終楽章が採り上げられませんでした。

このうち、真ん中の《竹田の子守歌》以外は、あたかもフィドルのような音楽が奏で上げられていた。或いは、大道芸人的な様相を帯びてもいた。
その演奏は、ベートーヴェンやバッハでの時以上に、自在感に満ちていて、音楽が生き生きとした表情を見せてくれていました。それは、ドゥーブル・サンスのメンバー達においても然り。「我が意を得たり」といった反応を示してくれていた。「音楽する喜び」に満ちてもいた。
ネマニャにとっても、ドゥーブル・サンスにとっても、真骨頂を示すことのできていたアンコールだったと言えそうです。聴衆も、演奏中には自然発生的に手拍子で応え、演奏が終わると大喝采でありました。
なお、最後の最後に、「ハッピーバースデイ」が演奏されました。ヴィオラ奏者の一人が誕生日だったのでしょう。彼に向って、全員で演奏していた。その様は、実にアットホームなものであり、微笑ましいものでありました。