高関健さん&関西フィルによる演奏会(ブルックナーの交響曲第8番)を聴いて

今日は、高関健さん&関西フィルによる演奏会を聴いてきました。
演目は、ブルックナーの交響曲第8番。この演奏会が告示された時点では、1890年に完成した第2稿に基づく演奏だと示されていながらも、使用版は検討中となっていました。実際に使用されたのは、昨年、校訂作業が完了したばかりの「第2稿(1890年)・新全集ポール・ホークショー校訂版」ということになりました。
昨年の7月に京響とのマーラーの交響曲第5番を、その3か月後に同じく京響との共演でプレトニョフがピアノを弾くオール・モーツァルト・プロを聴き、そのいずれもで、明晰で、目鼻立ちのクッキリとしていて、それでいて、弾力性を帯びていて、なおかつ、呼吸感の絶妙な演奏を展開してくれた高関さん。しかも、音楽への誠実さが如実に感じられる演奏となっていた。それはもう、充実感タップリな演奏を繰り広げてくれたものでした。
そんな高関さんが、本日は、全ての音楽作品の中でも屈指の重量級な作品と言えそうなブルックナーの交響曲第8番を採り上げる。きっと、聴き応え十分な素晴らしい演奏になることだろうと、大きな期待を寄せながら会場に向かったものでした。
それでは、本日の演奏会をどのように聴いたのかに書いてゆくことに致します。

期待通りの、誠実にして、聴き応え十分な演奏でありました。
全体を通じて、テンポは遅め。先を急ぐようなところは微塵もなく、悠揚たる歩みによるブルックナー演奏となっていました。音楽が充分に響き渡ってゆく、そんな演奏でもあった。
とは言うものの、演奏時間は82分ないし83分といったところ。これは、楽章間のインターバルも含めて(楽章間でチューニングし直す、ということは一度もありませんでした)の計測時間のため、極端に遅いテンポが採られていた、という訳でもなかったようです。しかしながら、体感のテンポとしては、かなり遅いなと思えたものでした。
それでいて、歩みが鈍重になる、ということはありませんでした。むしろ、流れの滑らかな演奏となっていた。そのうえで、音楽が豊かに呼吸していた。音楽が肥大化するようなことはないものの、雄大な音楽が鳴り響くこととなっていた。
そのような様は、ブルックナーに相応しいものでありました。
さて、本日の演奏の関心事の一つは、ホークショー校訂版が使用されたことにありましょう。これから出版される新しい版の「最初の試演」ということであり、実際の音として鳴り響くのは、本日が世界で初めてとのこと。高関さんによるプレトークは、この作品におけるブルックナーの改訂歴と、本日の版の特徴などに関する説明に、その大半が割かれていました。版としては、第2稿のノヴァーク版にほぼ等しいとのこと。但し、最終楽章がノヴァーク版よりも2小節多いそうです。また、ダイナミクスや、アーティキュレーションなどが微妙に違うようですが、それは、聴いていてもまず気付かないであろう範囲の、僅かな違いだとのこと。
とは言うものの、最終楽章でノヴァーク版と大きく異なる箇所が1つだけある、と説明されていましたが、それは、439小節目からだったのでしょうか。ここは、ノヴァーク版ではトロンボーンとホルンとが一緒に旋律を奏でることになっていますが、本日の演奏では、ホルンが1小節ほど遅れてトロンボーンを追いかけるようにして吹いていたように記憶しています。私の記憶違いかもしれませんが。
ちなみに、プレトークで高関さんは、ブルックナーが第1稿から第2稿へと改訂する際に、小節を削る作業をメインとしていて、そのために、音楽の流れに滑らかさを欠くことが散見される、との見解を述べておられました。そこで、本日のホークショー版での演奏では、スコアから音を変えることはしないものの、流れを滑らかにするべく留意する、と言われていました。本日の演奏に滑らかさが感じられたのも、その辺りの高関さんの配慮に依るところが大きかったのでしょうか。
なお、スコアから音を変えることはしないという態度を貫くことにしつつも、出版前だということで印刷上の誤植らしきものなども含めて誤りだと思われる箇所が至る所に見受けられ、それらについては、ホークショー氏に連絡を採りながら正誤を確認していき、そこで誤りだと確認できた箇所については、楽譜を改めて演奏してゆくことにしたとのことでした。この辺りは、いかにも「試演」らしいところであります。
さて、滑らかさを備えた演奏でありつつ、その一方で、音楽に句読点をシッカリと打っていこう、といった意図も、随所で感じられました。それは、曲が開始して早々、3小節目のアウフタクトから始まるヴィオラとチェロ・バスによる旋律を、音を短めに処理することによって、旋律線を明瞭なものにしていたことにも現れていた。そのことによって、音楽が決然とした表情を湛えることになってもいた。そう、本日の演奏は、ゆったりとしたテンポによる音楽づくりだったにも拘らず、音楽が情緒に流されるようなことがなかったのであります。この辺りも、いかにも高関さんらしいところだと言えましょう。
また、ワーグナーチューバをかなり目立たせていたようにも思えました。ワーグナーチューバによって、音楽が立体的な出で立ちをしたものになっていたようだった。それは、全楽章を通じて感じられたものでした。そのような中でも、第3楽章におけるワーグナーチューバのパートソロ(67小節目から)は、かなり強調されていて、力強くも雄大音楽となっていた。
ちなみに、本日の金管楽器の並びはかなり変則的で、左から(すなわち、舞台の上手から)トランペット、トロンボーン、バステューバ、そして一番左にホルンとワーグナーチューバが2列で座る、といった並びになっていました。ホルンとワーグナーチューバの位置関係と、更にはワーグナーチューバとバステューバとの関係性から、このような配置を採ることにしたのでありましょう。但し、金管の低音域と、コントラバスとが遠く離れることとになったのですが。そのために、音像が少々いびつになっていたように感じられたものでした。弦楽器を対向配置にすればコントラバスを下手側に持ってくることができるので、この辺りの音像の問題は解決できそう、という考えは短絡的に過ぎますでしょうか。
そのようなことを思案しつつも、演奏としては、頗る充実度の高いものとなっていました。しかも、変に大言壮語することなく、端正な音楽が鳴り響いていた。そのために、重々しさの感じられないブルックナー演奏となっていた。
なおかつ、最終楽章では、この作品に相応しい力感に不足のない音楽が鳴り響いていた。その一方で、第3楽章では、清澄な音楽が奏で上げられていた。シンバルとトライアングルが打ち鳴らされるクライマックス(239小節目、練習番号V)に向かっての昂揚感も見事だった。とは言うものの、この第3楽章については、遅めのテンポを十分に支え切れておらずに、やや音楽が間延びしてしまっていたかな、と思えなくもなかったのですが。本日の演奏での数少ない不満が、この点でありました。
そんな、僅かな不満や、疑問に思える点(金管楽器の配置について)がありはしましたが、総じて、立派にして、魅力的なブルックナーの8番でありました。そのような思いを抱くとともに、高関さんは、音楽に対するブレが少なくて、かつ、安定度の高い指揮者だな、との感慨を強くしたものでした。
なお、終演後に、この演奏会を後援している森下仁丹から、のど飴のお土産を頂きました。毎年3月の関西フィルの演奏会で配られている、恒例ののど飴。
空気が乾燥する季節になると、咳き込んでしまいがちになります。そのような時期の演奏会で、こののど飴を使わせて頂いています。重宝するのです。
【注】文章中の小節数は、第2稿・ノヴァーク版に則ったものになります。






