大植英次さん&大阪フィルによる演奏会(R=コルサコフの≪シェエラザード≫ 他) を聴いて

今日は、大植英次さん&大阪フィルによる演奏会を聴いてきました。演目は、下記の4曲。
●グリンカ ≪ルスランとリュドミラ≫序曲
●ボロディン ≪中央アジアの草原にて≫
●R=コルサコフ ≪スペイン奇想曲≫
●R=コルサコフ ≪シェエラザード≫
メインに≪シェエラザード≫を据え、前半にはロシア音楽のショウピースを3曲並べるという、オール・ロシア・プロによる華やかさを備えた演奏会でありました。
そのようなプログラムを、表現意欲の旺盛な大植さんが指揮をする。その血気盛んさに辟易することも多いのですが、本日のプログラムであれば、そのような演奏ぶりがツボにはまることも考えられます。
≪中央アジアの草原にて≫と≪スペイン奇想曲≫は、とても人気の高い作品でありながら、演奏会で採り上げられる機会はあまり多くない(ポピュラーな作品ばかりを並べた演奏会に組み込まれることは多いでしょうが、シリアスな演奏会ではなかなか採り上げられない)ように思えます。その実演に触れることができるということも含めて、本日はどうような演奏が展開されるのか、なんとも興味深く思えたものでした。
それでは、本日の演奏会をどのように聴いたのかについて、書いてゆくことに致します。

まずは前半の3曲から。
≪ルスランとリュドミラ≫序曲は、さほど快速とは言えないテンポで(とは言うものの、決して遅かった訳でもありません)での演奏で、大植さんらしい表現意欲の旺盛な演奏、というものにはなっていませんでした。ごくごく短い序奏部の最後のヴァイオリン群を、音量を膨らませながら煽っていた以外には、穏当な演奏だったと言いたい。ちなみに、その煽りは実に効果的で、聴いていて身体が前のめりになったのですが。
そのうえで、大フィルの響きのまろやかさを前面に押し出すような演奏となっていた。2週間ほど前の枚方でのコンサートに比べると、随分と艷やかな響きがしていたのであります。
そんなこんなによって、決してスリリングではない、安心して聴くことのできる≪ルスラン≫となっていました。
次の≪中央アジアの草原にて≫では、大植節が垣間見えた。と言いますのも、速めのテンポでサクサクと開始されつつも、コール・アングレが旋律を奏で始めると、テンポをガクンと落としたのであります。その落差たるや、凄まじいものがありました。
それは、行商の隊列が規則正しく進んでゆく様子と、その合間に挟まれる行商のノスタルジックな感傷とのコントラストを付けてゆく、といった意図があったのでしょう。そのことに呼応するように、曲も中盤を過ぎた辺りで、ヴァイオリン群がコール・アングレが奏でた旋律を再現する箇所でも、同様にテンポをガクンと落とした。そのような演奏ぶりは、なかなかに堂に入ったものではありました。とは言うものの、あまりに露骨に過ぎて、大植さんの演奏からしばしば感じられる恣意的な厭らしさ、といったものが感じられたものでした。
なお、エンディングでのフルートが吹く旋律も、後ろ髪を引かれるようにジックリと奏で上げられた。これはもう、ダメ押しに他ならない、といったものでありました。
続く≪スペイン奇想曲≫も、遅めのテンポでジックリと奏で上げられていく、といった音楽づくりになっていました。そのために、華やかさや、沸き立つような活気といったものが乏しかったように思えた。しかも、終曲の「アストゥリア地方のファンダンゴ」に入ると、一段とテンポを落とした。音楽が上滑りすることなく、より一層ジックリと奏で上げよう、といった思いがあったのでしょう。何と言いましょうか、大植さんにしては禁欲的な≪スペイン奇想曲≫になっていたように思えたものでした。
但し、最後の最後になって、音楽を存分にドライブしながら、大きく盛り上がりを築いていました。ここのために、それまでグッと力を貯め込んでいたのでしょうか。その昂揚感は見事でありました。演奏が終わると、会場は大いに沸いていたものでした。このエンディングだけを抜き取ってみれば、その沸騰ぶりも頷けます。
それでは、ここからはメインの≪シェエラザード≫について。
かなりの熱演であり、表現意欲が旺盛で手練手管の限りが尽くされた演奏でありました。特に第2,3楽章が。そのようなこともあり、大植節が随所に織り込まれた演奏となっていたのであります。
ちなみに、第2楽章へは全く合間を空けずに突入しました。第2楽章が終わった時点でインターバルを空けたものの、第3楽章から最終楽章へも、そのままなだれ込んでいった。その意味では、弛緩することを極力避けながら、聴衆に息をつかせない音楽が志向されていたと言えよう。
しかも、全曲を通じて、大植さんの気魄が漲っている演奏でもありました。そのことが、熱演ぶりを強く印象付けていたものでした。
例えば、第3楽章の後半で、コンマスによるソロを受けてアルペジオが爪弾かれるハープ(142小節目)に対して、大植さんは唸り声を上げながら強烈なアインザッツを出していた。この箇所に限らず、ハープが3回アルペジオを奏でる場面での1回目は必ず強烈なアインザッツが発動されていたのですが、この小節での気魄の強さは随一でありました。このアルペジオ、他の多くの演奏では優美に弾かれると言えるだけに、その気魄の籠め方は異様なものがあった。そして、アルペジオの2回目、3回目と回を重ねることで、音量を絞りつつ、次第に内省的に響かせてゆくことを要求していた。最初にガツンと響かせて周囲の空気を切り裂きながら、次第に繊細かつ思慮深い(この表現は、あまり適正ではないのですが)音楽世界を出現させる、といった意図があったのでしょう。
しかも、第3楽章のこの箇所(142小節目)を含むレチタティーヴォを経た後で、音楽が平時を取り戻した箇所では、モルト・エスプレッシーヴォと形容しても良いほどに、恍惚とした音楽が奏で上げられていった。音楽の色合いのみならず、大植さんの顔の表情も、鬼気迫るようにしながら恍惚としていた。
正直言いますと、大植さんが手練手管の限りを尽くすたびに、私は、胡散臭さを感じたり、あまりに滑稽なために苦笑してしまったり、臭い演出に閉口したり、といった受け止めをしていたのでした。しかしながら、この箇所での大植さんの顔の表情と、懸命になって自らが志向する音楽を鳴り響かせてゆこうといった姿勢に、心打たれたのであります。何と言いましょうか、かなりケッタイなことを随所で繰り広げているのですが、それはイタズラ心でやっているのではなく、精魂込めてやっておられるのだな、と思えたのでした。決して苦笑するべきではないな、とも思えた。
と言いつつも、やはり、随所でケッタイなことをしていたことは否定できず、正直、その感性に付いて行けないことが多かった。例えば、第2楽章が始まってすぐ、ファゴットによって提示される旋律は、度を越してユックリと吹かれ、かつ、旋律の流れを揺らしに揺らしていて、まさに苦笑せざるを得なかった。また、第3楽章でのクラリネットによるブリッジ状に吹かれる音型(20小節目から23小節目にかけて)では、頂上付近に至ると音を極端に長くとっていて、勿体ぶったものになっていた。それは、その後に出てくるフルートによるソロにおいても同様でありました。また、第3楽章の冒頭の旋律は、指揮棒をグルグルグルグルと回しながら、思い切ったカンタービレを団員に要求し、大フィルメンバーもそれによく応えていましたが、そのことによって実にウザったい音楽になっていた。
このように例示していけば、キリがありません。ストコフスキーによる≪シェエラザード≫と、各箇所での表情が似通っていたという訳ではないものの、採られている手法としてはストコフスキー的だと思わずにおれなかった。
(ストコフスキーによる≪くるみ割り人形≫の「金平糖の踊り」での、バスクラリネットによる下降音型を思い出したりもしたのですが。)
そんなこんなのアイディアが、これでもか、これでもかと、つぎ込まれてゆく。その様に、なんとも珍妙な≪シェエラザード≫だと思わずにはおれませんでした。なるほど、良く捉えれば「濃密な演奏」というふうにも表現できるのかもしれません。しかしながら、あまりに詰め込み過ぎな演奏だったと言いたい。「引き算」による美学、といったものもあるはずですが、大植さんによる演奏は、そこから最も遠いものだと言えそう。
大植さんは、間違いな陶酔型の指揮者の指揮者であり、そのことによって聴衆をも陶酔させる、といったことを目指しておられるのかもしれません。しかしながら、私には「しらけてしまう」場面の多い演奏でありました。
とは言うものの、≪シェエラザード≫という、芝居がかった演奏法を受け入れてくれる土壌のある作品だったが故に、そこまで眉をひそめるほどの演奏でもなかったかな、といった印象でもありました。聴いていて呆れてしまうことも多かったのですが。
なお、本日のコンマスは須山暢大さんだったのですが、そのソロは、艶やかにして表情豊かで、聴き応え十分でありました。とても雄弁であり、闊達でもあった。大植さんによる音楽づくりの志向がそのような方向を向いていただけに、大植さんが広げているパレットの中で、融通無碍なソロを展開していった、といった風にも感じられたものでした。しかも、頗る真摯で、嫌味が感じられなかった。
また、チェロのトップによるソロも、頗る流暢だった。楽器をタップリと鳴らしていて、存在感のあるソロで、聴き応え十分でありました。





