嵐山で斎宮行列を見物した後に、スダーン&兵庫芸術文化センター管による演奏会(ベートーヴェンの≪英雄≫ 他)の最終日を聴いて

今日は、スダーン&兵庫芸術文化センター管(略称:PACオケ)による演奏会を聴いてきました。演目は、下記の3曲。
●シューマン ≪マンフレッド≫序曲
● 〃 チェロ協奏曲(独奏:ヨハネス・モーザー)
●ベートーヴェン ≪英雄≫
スダーン&PACオケによる演奏会を聴くのは今回が4回目になりますが、過去の演奏会のいずれにおいても、虚飾を排していて誠実な、聴き応え十分な演奏を繰り広げてくれていました。おしなべて、速めのテンポを基調としながら爽快に駆け抜けてゆくような、溌溂とした演奏が展開され、ケレン味がなくて誠実味に溢れた音楽を奏で上げてゆく。そして、十分に生気に満ちていて、躍動感を備えてもいる。
そのうえで、作品が等身大な姿で再現されていき、かつ、変に重くなるようなことは皆無でありながらもズシリとした手応えを持った音楽を鳴り響かせてゆく。
これまでに私が聴いた演奏会は、ベートーヴェンやハイドン、シューベルト、そしてブラームスと、全てドイツ音楽を採り上げたものとなっていました。そして、今回もまた、ベートーヴェンにシューマンと、ドイツ音楽のみでプログラムを組んでいる。きっと、これまでに聴いてきた演奏の延長線上に位置するような演奏が繰り広げられることだろう。それだけに、これまで同様、奏で上げられる音楽に魅了されることだろうと、期待を膨らませながら会場に向かったものでした。
シューマンのチェロ協奏曲で独奏を務めるモーザーは、1979年生まれのチェリスト。名前を聞くのも初めてですが、ムーティ、マゼール、ヤンソンス、ゲルギエフ、メータ、ブーレーズ、ドゥダメル、といった世界の第一線で活躍している指揮者とも共演を重ねてきているようです。また、5世代にわたり音楽家を輩出しているミュンヘンの音楽一家の生まれで、曽祖父はブラームスやクララ・シューマンとも親交があったとのこと。40代の後半に差し掛かったドイツ音楽の系譜を受け継ぐ血筋の奏者だということもあり、脂の乗った演奏が繰り広げられることだろうと、こちらも楽しみでありました。
ところで、演奏会場への道中、阪急嵐山駅へ向かい途中に、渡月橋のたもとで斎宮行列を見物してきました。



斎宮とは、主に平安時代に、天皇が新たに即位されるごとに、天皇の代理として伊勢神宮に遣わされた未婚の女性皇族のこと。人と神とをつなぐ特別な立場で、祈りと祭祀を担っていたようです。その、京から伊勢神宮への旅を再現して、野宮神社から嵐山公園へ練り歩いていくのが、本日催された斎宮行列。毎年、10月の第3日曜日に執り行われています。
輿に乗った女性が、斎王。それ以外にも、多くの官人や女官が随行しています。
いやはや、なんとも雅ですよね。
ちょっと横道に逸れてしましました。
それでは、本日の演奏会をどのように聴いたのかについて、書いてゆくことに致しましょう。

最初に、前半の2曲から。
何と言いましても、モーザーによるチェロが素晴らしかったのですが、その前に演奏された≪マンフレッド≫も、聴き応え十分な素晴らしい演奏でした。
まずは、その≪マンフレッド≫について。
これまでに聴いてきたスダーンの演奏と同じく、ケレン味のない演奏ぶりで、しかも、この作品が内蔵している熱気を十全に表してくれていて、生気に富んでいた。そして、絶妙なアゴーギクが施されながら、音楽が自然に呼吸していた。その結果として、音楽が存分にうねっていた。
これまた、作品が等身大な姿で再現されていった、という思いを強く持ったものでした。更には、作品の生命力を誇張なく解放していた演奏だったとも言いたい。
とりわけ、チェロとヴィオラに主役が回ってきた箇所での、朗々としながら、逞しく奏で上げられてゆく様には、強く惹かれたものでした。
さて、ここからは、モーザーによるチェロ協奏曲についてであります。
モーザー、実に端正な演奏ぶりでありました。決して大向うを唸らせるような音楽づくりではない。それでいて、音楽が逞しく息づいていた。とてもノーブルな形で。
しかも、フレージングがとても滑らか。チェロの独奏からオケに音楽が受け渡される際など、シッカリとした呼吸感を表しながら、丁寧に渡されてゆく。その様の、なんと誠実で、かつ、美しかったことでしょう。
そのうえで、技巧的にも瑕疵が殆ど見受けられなかった。運指の的確さ、音程取りの確かさなど、唖然とするばかりでした。それ故に、音楽に滑らかさが生まれるのでもあった。
そんなこんなが、誇張の無い形で展開されてゆく。しかも、この作品ならではの疾駆感がシッカリと備わっていつつ、抒情性にも不足がなかった。
音楽センスが高くて、技巧的にも確かな演奏。そして、格調高くもあった。
聴いていてウットリとしてくるチェロ演奏でありました。
ソリストアンコールは、添付写真の2曲。その中でも、最初に演奏されたグリーグの≪ホルベルク組曲≫からの「サラバンド」が、実に素敵でした。
そのグリーグは、PACオケのチェリストも加わり、6人のチェロ奏者によるアンサンブル、という形が採られていました。同じ楽器ばかりが集まっての演奏だという親和性の高さが、ハーモニーの豊かさを生むこととなっていて、惚れ惚れするほどに美しい。そして、この、歌謡性の高い音楽を、しっとりと聞かせてくれた。その結果として、しみじみと心に染み込んでくる音楽が奏で上げられていた。そんな演奏にもなっていました。
しかも、モーザーが旋律を奏でると、実に高貴な雰囲気が漂ってくる。
大好きな≪ホルベルク組曲≫に、このような形で触れることができて、幸福感に包まれたものでした。
グリーグの演奏が終わっても、会場の拍手はなかなか鳴り止まない。モーザーも、3回、4回と舞台袖からステージ上に戻ってくる。そのような拍手に応えて、バッハの無伴奏チェロ組曲第1番からの「サラバンド」が演奏されました。なお、昨日までの演奏会では、アンコールはグリーグだけだったようです。
そのバッハでの演奏は、ちょっと内省的に過ぎたように思えました。訥々と弾かれていった。しかも、音楽が飛翔するようなことがなかった。伸びやかさに欠けてもいた。
本来は演奏することを考えていなかったバッハ。そのことが演奏に影響していたのでしょうか。そんな風に想像したものでした。

それでは、ここからはメインの≪英雄≫について。
その演奏はと言いますと、スダーンらしくケレン味のないものでありました。第3楽章までは。
なるほど、やや速めのテンポが採られていましたが、さほど速くはなかった。そのために、とりたてて溌剌としている、といったことはありませんでした。それよりもむしろ、これまでのスダーンによる演奏と比べると重心を低く採りながらの音楽づくりが施されていた。それは、≪英雄≫という作品の性格や、この作品の音楽史における位置、といったものを意識した故なのかもしれません。
しかも、小節の頭の強拍を強調することがしばしば。それは例えば、第3楽章のスケルツォでの、ヴァイオリンが細かな音符で音楽を奏でている箇所でも施されていた。そのことによって、拍節感を鮮やかにしよう、更には、推進力や逞しさを出してゆこう、といったことを目論んでいたのかもしれません。
ただ、おしなべて、スダーンであるからこそ、といった味わいは、あまり感じられなかった。充実度の高い演奏ではあったものの、何と言いましょうか、無難に音楽が進んでゆく、といった印象を受けたものでした。
ちなみに、第1楽章の主題提示部のリピートは敢行されていました。
ドッシリと構えた演奏ぶりは、第2楽章において更に顕著なものとなっていった。おどろおどろしい、といったようなところまでは行っていなかったものの、重厚な音楽が奏で上げられていた。また、短調の箇所と長調の箇所との対比も鮮やかで、かつ、昂揚感の高い演奏でもあった。とは言うものの、予定調和的な演奏だとも感じられた。
第3楽章も、安定感があったものの、とりたてて特徴がない。
さぁ、そこで、問題の最終楽章へ入っていきます。ちなみに、アタッカでなだれ込まずに、シッカリとしたインターバルが採られた上で、最終楽章は始まりました。
短い序奏が終わると、変奏曲の主題が奏で上げられる訳ですが、ここで、小節の頭の強拍が、これまで以上に露骨に強調された。それはもう、不自然なまでに。更には、ピチカートで主題が提示されるところを、最初はピチカートにしていたものの、9小節目からはアルコで弾かせていた。なるほど、最初の箇所は8分音符で書かれていて、9小節目からは4分音符になっています。しかし、アルコとは書かれていない。
更には、場所によっては、ベッタリと塗りつぶすようにしてレガートで弾かせたりもする。
その様は、手練手管の限りを尽くしながらの演奏、といったものになっていた。しかも、その措置に、私は必然性を見出すことはできなかった。もっと言えば、鼻につく音楽となっていた。
大混乱しながら聴いていった。そんな最終楽章となっていたのであります。
なぜ、スダーンは豹変してしまったのでしょう。無個性な演奏に終わってしまうことを回避して、異常なまでに個性的な表情付けを行おうとしたのでしょうか。そのように推察するしかなかったのですが、突飛なアイディアを繰り出せば繰り出すほどに、ベートーヴェンの音楽から遠ざかってゆく。≪英雄≫という作品の巨大さ故に、このような措置を採ったのかもしれないのですが。
全く感心のできない最終楽章でありました。
スダーンも、このような恣意的な音楽づくりを施すこともあるのだ。そのことを知ることができたのが収穫だった。そんな奇妙な手応えを掴んだ演奏会となりました。






