尾高忠明さん&大阪フィルによるベートーヴェン・ツィクルスの第4夜(第8番と第7番)を聴いて

今日は、大阪のザ・シンフォニーホールで尾高忠明さん&大阪フィルによるベートーヴェン・ツィクルスの第4夜を聴いてきました。演奏されたのは、下記の2曲。
●ベートーヴェン 交響曲第8番
●   〃    交響曲第7番

昨年の9月に開始され、今年の2月まで5回に亘って繰り広げられるベートーヴェン・ツィクルス。第2夜で演奏された第4番と≪英雄≫に続いて、2つ目のツィクルス鑑賞となります。
第2夜では、なんとも充実したベートーヴェン演奏が繰り広げられていて、深い感銘を受けたものでした。全編を通じて誠実にして、堅固であり、ケレン味のない音楽づくりが為されていた。「ベートーヴェンが楽譜に記した音楽を、忠実に現実の音にしてゆこう。そうすれば、自ずと充実した音楽が鳴り響くことになるのだ。」、といった固い意志の貫かれた演奏だったとも思えた。
今夜もきっと、2ヶ月ほど前の第2夜での演奏の延長線上に置かれた、素晴らしいベートーヴェン演奏が展開されることだろう。そのような期待を胸に抱きながら、会場に向かったものでした。

それでは、本日の演奏会をどのように聴いたのかについて書いてゆくことに致します。

まずは、前半の第8番から。
あまりに期待が大きかったためでしょうか、ちょっと肩透かしを喰らったような気分になったものでした。
弦楽器のプルトの数は6-5-4-3-2.5。やや小ぶりな編成と言うべきかもしれませんが、音が痩せるようなことはありませんでした。とは言うものの、重厚感に溢れる、といった響きでもなかった。この作品に必要な柔和さと言いましょうか(とは言え、柔和とも違うのですが)、優美さと言いましょうか、を出すために編成を小ぶりにしたのでしょう。第7番では、プルトを増やすように思えたものでした。
さて、演奏ぶりはと言えば、第2夜での2曲と同様にケレン味のないものでありました。恣意的な表現は、ほぼ見当たらない。テンポは、速からず遅からず、といったところで、安定感抜群の演奏が展開されていった。そのうえで、ベートーヴェンの指示を愚直なまでに遂行しようといった態度が強く感じられたものでした。例えば、第1楽章の終わり近く(349小節目)で、ベートーヴェンには珍しくfffが現れるのですが、尾高さんは固い意志を持ってfffを響かせていたことが手に取るように判った。音楽が力強く爆発したのであります。その様は、実に確然としたものだった。また、提示部の終わり間近に(96小節目)現れるffも、広がりがあって、かつ、凝縮度の高い音を響かせていた。
また、ベートーヴェンが記した全てのリピートを敢行していたことも、前回同様でありました。
そのような中で、とりわけ惹きつけられたのは、第1楽章の展開部であります。途中から、音楽が一気に熱を帯びてきたのでした。特に168小節目からは各楽器群がより一層有機的に絡み合うようになり、雄渾な音楽が鳴り響くこととなっていた。
とは言うものの、全体を通じて、この作品ならではの優美さに不足していたように思えた。出だしなどは、誠にしなやかな音楽で開始され、まろやかでもあり、力みは全く感じられたのですが、それでも、優美な音楽世界が広がる、といったものにはなっていなかった。何と言いましょうか、この作品を掌中にシッカリと納めている、といったものになっていなかったようにも思えたのであります。音楽の流れが、ぎこちなくなることも多かったように思えた。
もっと言うと、3拍子で書かれている第1楽章を、箇所によっては1小節を1つで振ったり、箇所によっては3つで振ったりと、その場その場の音楽の歩みに従って振り分けていたのですが、「えっ、ここを1つで振るの?」と疑問に思えてくる箇所も散見されました。1つで振ったことによって、オケを掌握しきれなくなったように感じられた箇所が、幾つか見受けられたようでもあった。
全体的に、雄々しいベートーヴェンではなく、微笑みを絶やさないベートーヴェンを目指した演奏ぶりだったと言えるかもしれません。そのうえで、曲想に応じて、躍動感を添えてゆく。この作品を、そのような方向で演奏することは、大いに「有り」だと言うべきなのでしょうが、そのような音楽づくりに、一本筋が通っていなかったようにも感じられた。
この作品の特異性や、難しさを痛感させられたものでした。
なお、第3楽章のトリオ部でのホルンとクラリネットには、滑らかさが欠けていて、残念でありました。例えば、ここでのクラリネットのソロは、63小節目に高いソの音(実音では、Fの音)が8分音符の繋がりの中で出てきて、とても難しい。滑らかに歌ってゆくソロの中で、この音域が使われることは非常に珍しく、細心の注意を払わなくてはならないのですが、そのソの音が、やや絶叫気味になっていたのであります。この交響曲の中での、クラリネットの最大の聞かせどころであるだけに、とても残念でありました。また、2本のホルンによるパートソロは、音を外し気味になっていて、かつ、音楽の流れにぎこちなさが感じられて、こちらも興を削がれたものでした。
そんなこんなもあって、ちょっと複雑な思いで、休憩時間を過ごしたものでした。

それでは、ここからは第7番について書いてゆくことに致します。
いやはや、実に素晴らしかった。第8番での不満を取り返して余りある素晴らしさだったと言いたい。
やはりと言いましょうか、ケレン味のない音楽づくりで、真摯な演奏が展開されていました。プルトの数は7-6-5-4-3だったでしょうか(ヴィオラ以下は、間違いなく5-4-3。第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンは数えるのを忘れてしまいましたが、7と6で間違いなかったでしょう)。第8番よりも増強させた分、音に厚みと輝かしさが増したように感じられました。
とは言うものの、重厚さをひけらかすようなことはない。過剰に華美にオケを掻き鳴らしたり、力任せに奏で上げたり、無為に騒ぎ立てたり、といったようなこともない。むしろ、余裕を持って音楽を鳴らしていました。それ故に、音楽が絶叫するようなことは皆無で、しかも、ふくよかで豊穣な音楽が鳴り響いていたのであります。
テンポは、第8番と同様に、速からず遅からず、といったところ。そのため、充分な推進力を備えていつつ、周囲を蹴散らしながら雄々しく驀進してゆく、といったベートーヴェンにはなっていませんでした。とても端正な音楽が奏で上げられていた。
そのうえで、やはり、ベートーヴェンの記譜を愚直なまでに実行してゆこうといった意志の強い演奏となっていました。例えば、第1楽章の254小節目から、ここでは、管楽器のティンパニの動きに16分休符が加えられているのですが、その休符をハッキリと見せながら演奏していった。しかも、274小節目からは管楽器の音型に16分休符が消えるのですが、そのことを強調するかのように、レガート気味に吹かせて、254小節目からの硬めの響きから、274小節目でマイルドな響きに一変する様が、ものの見事に表されていたのであります。楽譜通りに演奏する、しかも、ハッキリと目に見えるかのように演奏することの尊さ(俗っぽい言い方をすれば、演奏上の効果を生み出す見事さ)が、顕著に現れた箇所だったと言いたい。
そのような演奏態度による演奏だったために、当然のことのようにリピートしてゆく様が、なんとも似つかわしかった。なおかつ、形式美がクッキリと現れていたとも言いたい。
更には、インテンポを崩さない、といった意志がハッキリと見受けらたことも、実に尊いことでありました。そのために、第3楽章では木管楽器群がスビトppで音量を落とす箇所(例えば34小節目)が何度も出てくるのですが、そこでの尾高さんの指揮は、音量を絞ることを指示するような動きをせずに、同じ振り幅で一定のテンポを刻んでいった。この箇所では、指揮者がスビトppを表現する動きを採らなくとも、木管奏者はシッカリとスビトppで吹いてくれることを了解しているが故に、それよりもテンポを一定に保つことを優先して、このような動きを採っていったのでしょう。けだし慧眼だと言いたい。そのこともあって、木管奏者の自主性によってシッカリとスビトppに音量が落ちつつ、毅然とした表情を湛えた音楽が鳴り響くこととなっていた。とは言うものの、このスビトpp、リピートしたことも含めてトータルで8回現れることになりますが、そのうち2回は、両手でスビトppの表情を作っていました。また、1回は、左手のみでスビトppの合図を出していた。すると、大フィルの木管奏者は、より一層音量を落とし、かつ、繊細に音を響かせていた。尾高さん、気ままにスビトppの合図を出したり出さなかったりしていなかったのでしょうが、そのことによる団員の反応の違いが見て取れ、音楽のニュアンスが微妙に変化する様子を感じ取ることができたのは、とても興味深いものでありました。
また、最終楽章においても、大きな身振りを見せずに、テンポを守ることを第一義にしたような指揮ぶりが、なんとも潔かった。そのうえで、この楽章に不可欠な前進力は充分に備わっていました。その前進力は、押しの強さを前面に押し出したものではなく、堅実にして、端正なものだった。そう、聴き手を扇動してゆくような最終楽章にはなっていなかったのであります。それでいて、生気に溢れていて、逞しい音楽になっていた。何と言いましょうか、品格を備えた逞しさが感じられたのであります。
そのような中で、コーダに入る直前、331,332小節目でのホルンによる強奏を合図にしたかのように、俄然熱気を帯びてきた。コーダでの、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラが、代わる代わる16分音符のパッセージを奏でる箇所などは、特に第2ヴァイオリンとヴィオラの音が潜ってしまわないように力こぶを作りながら激しく弾かせるなど、音楽をドンドンと掘り下げていこう、といった意欲が漲っていた。そのような音楽づくりに伴い、実に扇情的な音楽になっていった。そして、大きな昂揚感を築いていった。それは、端正な中から生まれた、扇動。
終演後、会場は大いに沸いたのは、当然のことでありましょう。
とは言うものの、その扇動は、最後の最後はかなぐり捨てながらの昂揚とはなっていたものの、それでもやはり、節度ある煽り方だったと言えそうなところが、尾高さんらしいところであります。
以上、かなり細かくピックアップしながら書いてきましたが、全体を通じて、騒ぎ立てるようなことは皆無で、頗る折り目正しくありつつも、ワーグナーが「舞踏の権化」と評したこの作品に相応しい活力や、律動感に溢れた音楽が奏で上げられていたのでありました。堅牢な造りをしていつつも、堅苦しさはなく、音楽がふくよかに、かつ、しなやかに流れていた。しかも、どこにも誇張がなく、とても真摯な姿勢が貫かれていた。
いやはや、なんとも見事な第7番でありました。
終演後、尾高さんは聴衆に向かって「やっと、8曲終わりました」と語りかけてきた。9つの高い高い山並みを踏破することは、とても疲れることでありましょう。とは言うものの、それはきっと、心地よい疲れなのでありましょう。