鈴木秀美さん&神戸市室内管による演奏会(モーツァルトの交響曲第39番と、ベートーヴェンの≪英雄≫)を聴いて

昨日(4/13)は、鈴木秀美さん&神戸市室内管(略称:KCCO)による演奏会を聴いてきました。演目は、下記の2曲。
●モーツァルト 交響曲第39番
●ベートーヴェン 交響曲第3番≪英雄≫

モーツァルトとベートーヴェンによる、変ホ長調で書かれた交響曲を組合わせてのプログラム構成。実に素敵な内容であります。
変ホ長調という調性は、優美で、華やかで、しかも、壮麗な音楽が多いと考えています。ベートーヴェンのピアノ協奏曲の≪皇帝≫も、その例の一つだと言えましょう。
更に言えば、クラリネットが加えられた名曲が多く、クラリネットが独特の輝きを放つ源となる場面がしばしば見られる。しかもそのことが、作品の性格付けの上で重要なファクターとなっているように思える。モーツァルトで言えば、ピアノと木管楽器のための五重奏曲K.452、管楽器のための協奏交響曲K.297b、セレナード第11番K.375。三重奏曲の≪ケーゲルシュタット≫K.498は、まさに、クラリネットが主役。更には、ピアノ協奏曲第22番K.482も、この中に加えて良いでしょう。≪魔笛≫も、主たる調性は変ホ長調。セレナード第12番K.388は、変ホ長調と平行調のハ短調で書かれていて、親戚のようなものだと看做せましょう。ピアノ協奏曲第24番K.491もまた、ハ短調。ベートーヴェンで言えば、七重奏曲が、これらの例に該当しよう。
この日の2曲では、とりわけ、モーツァルトの39番が、クラリネット入りの変ホ長調の性格が色濃く現れているように思えます。
大学オケでクラリネットを吹いていた私は、変ホ長調は、溺愛している調性であります。実際に、変ホ長調の曲を吹くと、楽器が良く鳴ってくれもして、吹いていて気持ちが良い。モーツァルトのホルン協奏曲第3番もまた変ホ長調で、この曲を吹いた時も、頗る御機嫌な気分を味わうことができた。
そのような変ホ長調の2曲を、鈴木さんがどのように演奏してくれるのか。楽しみで仕方がありませんでした。

それでは、この日の演奏をどのように聴いたのかについて、触れてゆくことに致しましょう。
結論から言えば、メインの≪英雄≫は素晴らしかった。大いに共感できる演奏でありました。しかしながら、前半のモーツァルトの39番は、私には居心地の悪い演奏となっていた。

詳しく書いてゆくことにしましょう。まずは、モーツァルトから。
一昨年の4月に鈴木さん&KCCOの演奏会に初めて聴きに来てからというもの、今回でこのコンビによる演奏会は6つ目なるのですが、これまでの演奏会でモーツァルトを採り上げたのは、≪アイネ・クライネ・ナハトムジーク≫(鈴木さんは、プレトークで、この作品の題名をフルで呼ぶことは稀で、演奏家仲間では「アイネク」と呼ぶのが習わしになっている、と仰っていました)くらいだったのではないだろうか。しかも、その時のアイネクは、鈴木さんは指揮をせずに、チェロを弾きながらオケを統率されていた。純粋に、鈴木さんが指揮をされるモーツァルトを聴くのは、今回の39番が初めてだろう。そんなふうに思いながら聴いていたものでした。
今回の39番を聴きながら感じたこと、それは、鈴木さんの演奏に対する志向と、モーツァルトの音楽との間には、相容れないものがありそうだ、ということ。それは、モーツァルトの音楽が持っている天衣無縫な美しさ、屈託の無さ、均整の取れた美しさ、といったものを十分に感じさせ得ない演奏ぶりだった、と、私には感じられた点に尽きます。
ここで、帰宅して、過去の鈴木さん&KCCOの演奏会を振り返ってみました。すると、アイネク以外にも、2つのモーツァルト作品を聴いていました。一つは、木管楽器8本によるセレナード第12番ハ短調、もう一つは、交響曲第34番。
セレナード第12番を聴いた印象としては、次のように書いていました。
「演奏内容は、思い入れの強い作品なだけに(私自身、この曲のクラリネットパートを何度も演奏したことがあります)、ここはもっと鋭くえぐって欲しいとか、色々と要望を出したくなる箇所もあったのですが、そのようなことを抜きにして、作品の魅力に虜になった25分間でありました。」
また、交響曲第34番に対する印象については、次のように書いています。
「ハ長調で書かれた作品ということをかなり意識してのことなのでありましょう、ドッシリと構えた壮麗な演奏が繰り広げられていました。その一方で、句読点を明確にしながら、音を打ち込むような音楽づくりをされていた。最終楽章では、音楽を開放し、爽快感を押し立てていた。そこには、毅然としていつつも、茶目っ気が感じられもした。
全体的に、楷書風な表現だったのですが、要所要所で音楽の流れを滑らかに持っていき、しなやかさが与えられてもいた。
そんなこんなによって、清々しさや、潔さの感じられる演奏でありました。」
過去に聴いた2つのモーツァルト作品(アイネクを除いてカウントしています)では、特に居心地の悪さを感じるようなことはなかったようです。
それでは、この日の39番の演奏のどこに、居心地の悪さを感じたのか、について。
鈴木さんの音楽づくりは、意志の強さをベースにされているように思えます。音楽を、階段状に積み上げてゆく作業にも似ていると言えそう。しかも、決して居丈高にならずに、誠実に、そして、謙虚な姿勢でもって音楽を奏で上げる。その辺りに、鈴木さんの美質があるように思えるのであります。
この日のモーツァルトの39番もまた、そのような演奏ぶりが示されていました。しかしながら、それが災いしていたように思えた。すなわち、天衣無縫な音楽とならずに、音楽の「縫い目」がハッキリと見えることとなっていた。継ぎはぎだらけの音楽になっていた、とも言えそう。それは何故なのか。その要因は、至る箇所で句読点を打ち、タメを作ってゆく、といった演奏ぶりを採っていたためだと思えます。そのために、流麗さを削いでしまいがちになっていたとも思える。
その最たる例が、第1楽章の70小節目。この小節で、大きなタメを作って、2拍目と3拍目の四分音符を打ち付けるようにして演奏していた。なるほど、ハッキリとした句読点が打たれた訳ですが、ここで、音楽の流れが寸断されたように感じられた。
帰宅してスコアを見ると(この曲は、ベーレンライターから出ている新モーツァルト全集のスコアを所有しています)、2拍目と3拍目には、楔型のスタカートが記されていました。モーツァルトはここで、音の鋭さを要求していたのでしょう。更には、打ち込むような音を求めていたとも思える。鈴木さんは、その点を重視されたのであろうことが想像できます。この辺りに、鈴木さんの「意志の強さ」や「音楽への誠実さ」が見て取れそうです。
(ちなみに、旧モーツァルト全集のスコアを見ると、この2つの四分音符は、普通の点のスタカートで記されていた。)
音楽においては、何が正しいとか、何が間違っているとか、ということを論ずるのは、意味を為さないことが多いように思えます。肝要なことは、音楽を「どのように感じるか」、音楽に「どのような姿を求めるか」ということ。しかも、その作品が求めているであろう形の中で、その点をわきまえてゆくことが肝心。鈴木さんは、ここの箇所で、大きなタメを作りながら、2拍目と3拍目の四分音符を打ち付けるようにして演奏することを良しとした、ということでありましょう。そのことによって、この箇所を強調しようとした。そこに、モーツァルトの意志を表そうとした。
しかしながら、私には、その演奏表現に違和感を覚えた。音楽が流麗さを欠くこととなったことを残念に思った。
鈴木さんが表現しようとした39番と、私が求める39番との間に、齟齬をきたした。ただそれだけだ、と言えるように思えます。
第1楽章の70小節目に焦点を絞って書いてきましたが、そこでの演奏ぶりが、この日の39番の演奏を象徴していたように思えます。音楽を淀みなく奏で上げてゆく、というよりも、ミクロに切り取りながら音楽を作り上げてゆく、という演奏だった。その点から見れば、以前に聴いた34番と同様に、楷書的な演奏だったとも言えそう。更に言えば、概して、逞しさの備わっていたモーツァルト演奏でもあった。しかしながら、優美さや流麗さが感じられなかった。かなり、ゴツゴツとした肌触りのモーツァルトだった。
そのような中では、最終楽章は疾駆感があって、しなやかさを備えてもいて、大いに惹かれました。この楽章の16小節目以降でのチェロ・バスとヴィオラによる「パパパー、パパパー」という八分音符2つと四分音符による動きは、弾力性を帯びていて、音楽に推進力を持たせていた。ここの動き、私は大好きなのであります。旋律に耳を傾けるよりは、チェロ・バスとヴィオラの動きに注意を払いがちになる。チェロ・バスとヴィオラの動きが、音楽に活力を与え、ここの箇所の性格を決定づけてゆく。そのように考えています。その点、この日の演奏は、私にとっては望み通りのものでありました。
更には、この楽章の後半は、かなり熱気を帯びていた。それは、この作品が持つ熱量からはみ出さない範囲での熱気でありました。最終楽章の後半、展開部と再現部の箇所にはリピートが付いているのですが、当然のごとく、リピートは敢行されました。そのリピートを施す際に、かなりの間を空けていて(それは、楽譜に指示されている休符よりも、かなり長い間が採られていた)、一瞬、ここで演奏が打ち切られたのかと思われたくらいでしたが、リピートして展開部の頭に戻ったところでの切迫感に満ちた熱気は、実にスリリングでもありました。
総じて言えば、聴くべき箇所や、鈴木さんの音楽観を理解するために有用と思われる箇所が数多くありはしたものの、私の求めるモーツァルトからは、もっと言えば、私の求める39番の作品像からは、遠い箇所が多かった。それが、正直なところでありました。

さて、ここからは、メインのエロイカについて。
鈴木さんの音楽づくりは、基本的にはモーツァルトの39番と変わらない。違いを挙げるとすれば、エロイカではかなり速めのテンポが採られていて、キビキビとした足取りで音楽を進めてゆく、というスタイルが採られていたくらいでしょうか。モーツァルトでは、やや速め、といったテンポでありました。
そのうえで、音楽を逞しく奏で上げてゆく。要所要所で、区切りを付けながら音楽を進めてゆくといった点も、モーツァルトでのやり方と同じ。
それでいて、モーツァルトで覚えた違和感は、エロイカでは感じられなかった。それは、モーツァルトとベートーヴェンの音楽の違いに依るのでしょう。
プレトークで、鈴木さんは、モーツァルトの39番は天国のように美しい、その一方で、ベートーヴェンは「地獄」とは言わないものの(ここで、鈴木さんは苦笑されていました。言葉の綾で、地獄と言わざるを得ないといったところだったのでしょう。鈴木さんは、ベートーヴェンの音楽は地獄を描写したものだなんて微塵も思っていないのに、ついつい、話しの流れでそう言わざるを得なくなってしまったことに苦笑した、といった雰囲気でありました)、格闘する音楽、苦悩する音楽、或いは、歓喜を示す音楽、そういった要素が含まれてくる、といった趣旨のことを仰っておられました。まさに、そのような性格が滲み出てくるような演奏だった。そんなふうに言いたい。
違う言い方をすれば、人間臭さのようなものがハッキリと感じられた。それは、モーツァルトの39番とエロイカとを並べた結果、浮かび上がってきた印象のようにも思えます。
モーツァルトの39番は、ラファエッロの絵画のごとき、均整が取れていて、優美で典雅な世界が広がってゆく音楽だと、私は考えています。そこへゆくと、鈴木さんによるエロイカは、ミケランジェロのようでした。キリッと引き締まっていて、筋肉質、そして、逞しい生命力に溢れていた。その例からすると、鈴木さんは、モーツァルトの39番においても、ミケランジェロ的なアプローチを施していたように思えてきます。それ故に、私は、鈴木さんの39番に居心地の悪さを感じてしまった。
エロイカという作品は、変ホ長調の作品に特有の、優美で華やかな雰囲気を持たせながら演奏をしても、様になりましょう。その一方で、筋肉質で逞しい演奏にも十分に適応できる。私が、鈴木さんのエロイカに共感したのも、まさにそのためなのでしょう。
なお、エロイカが持っている壮麗さは、それほど強調されていませんでした。最終楽章のコーダで、最後にテンポを速める直前でのクライマックスでは、音楽にタメを作りながら壮麗な音楽世界を構築してゆく、といったものが図れていましたが、室内オケゆえ(第1ヴァイオリンが4プルト、という編成)、概してスリムな演奏ぶりでありました。更に言えば、清新な演奏でもあった。古楽器的な奏法がふんだんに採り入れられていて、ノンヴィブラートを基本としていたことも、この印象を強めることとなっていた。濃厚、といった演奏とは対極にあった演奏だったとも言えそう。
溌剌としていて、逞しいエロイカ。潔くて、健康的とも言えそうですが、アコーギクの変化を随所で見せ、見得を切ることも多かったエロイカ。そのため、屈託がない、というよりも、様々な趣向が凝らされていたエロイカでもあった。
そのような音楽づくりを、作品は、シッカリと受け止めていた。いや、作品が受け止めていた、という言い方は相応しくないでしょう。そのような音楽づくりを作品が受け止めてくれることを承知した上で、鈴木さんは、このようなアプローチを施したと、見るべきでしょう。
ユニークな面白さを備えた、聴き応えのあるエロイカだった。そんなふうに言いたい。
なお、余談になりますが、最終楽章にアタッカで入る際の、そのアタッカぶりが、半端なく隙間が短かったのが印象的でした。「モルト・アタッカ」と呼びたくなるほど。そのために、劇性の頗る高いものとなっていた。衝動に駆られた故の措置なのでしょうが、実に効果的でありました。