ノット&大阪フィルによる演奏会(ブラームスの交響曲第1番 他)の第2日目を聴いて

今日は、ノット&大阪フィルによる演奏会を聴いてきました。演目は、下記の3曲。
●リゲティ ≪ロンターノ≫
●ドビュッシー ≪夜想曲≫
●ブラームス 交響曲第1番
ノットが初めて大阪フィルを指揮するという、注目の演奏会。個人的には、2026-27年シーズンの大阪フィルの定期演奏会の中で、最も大きな期待を寄せている公演でありました。
(今シーズンは、デュトワの登場がないのが残念でなりません。)
しかも、メインにブラームスの交響曲第1番を据えるという王道を行く選曲でありながら、中プロにはドビュッシーを、そして、前プロにはリゲティを採り上げるところに、ノットのこだわりが感じられ、興味をそそられる。
ノットは、2001年にベルリン・フィルを指揮してリゲティの作品集を録音しているように、リゲティに深く傾倒しているようです。本日演奏される≪ロンターノ≫は、リゲティの代表的な書法でありますトーン・クラスターが採り入れられた作品で、前述のCDの中にも収められています。また、2014年から12シーズンにわたって音楽監督を務めていた東京交響楽団との演奏会でも、リゲティをしばしば採り上げていた。そんなノットであります。大阪フィルへのデビュー演奏会の冒頭でリゲティを演奏するというのは、「名刺代わり」のようなものなのでしょうか。
ノットは、直近では、昨年の7月にスイス・ロマンド管との京都公演で≪ペトルーシュカ≫をメインに据えたプログラムを聴いていますが、そこでは、肩肘を張らない、伸び伸びとした音楽が奏で上げられていったものでした。音楽づくりが、頗るしなやかでもあった。しかも、作品への鋭敏な反応が、そこここから感じられた。
そんなノットのことです、本日もきっと素敵な演奏を繰り広げてくれることだろうと、期待を膨らませたものでした。
色々と興味が掻き立てられる、今月の大阪フィル定期。どのような音楽世界が立ち昇るのか、とても楽しみな演奏会でありました。
それでは、本日の演奏会をどのように聴いたのかについて、書いてゆくことに致します。

まずは、前半の2曲についてでありますが、なんとも素晴らしかった。ノットの指揮の動きそのものがしなやかであり、その結果として、オケからしなやかにして滑らかな音楽を引き出してゆく。そのような演奏でありました。
ちなみに、リゲティでは指揮棒を持たずに指揮をして、ドビュッシーでは指揮棒を持っていました。また、ドビュッシーは暗譜で振っていた。また、これは本日の3曲全てに当てはまることでありますが、対向配置が採られていました。
少しく詳述していきましょう。
リゲティの≪ロンターノ≫は、演奏時間約13分の間を通じて、頗るスタティックな音楽となっています。旋律と呼べるようなものは殆ど出てこずに(第2部と呼べそうな箇所に入ると、ほんの僅かに旋律のようなものが出てくる)、動きの無い音楽が続いてゆく。そのような音楽に対して、ノットはかなり激しく動きながらの指揮をしていました。場合によっては、オケを煽るようなこともしていた。それでも、おしなべて静的な音楽が鳴り響いているのであります。しかしながら、ノットが大きな動きをしていた直後にスビト・ピアノ(突然に音量をピアノに弱めること)が現れると、その落差が頗る大きなものになっていた。そう、静的に思われていたのだけれども、その中で十分に音楽は昂揚していたのであります。そのような姿を、クッキリと表していったノット。或いは、コントラバスが突然蠢いた際の鮮やかさも、際立っていた。
そのうえで、抒情性の豊かな音楽が鳴り響くこととなっていた。そう、決して無味乾燥な音楽になっていた訳ではなかったのであります。そして、上で触れましたように、スタティックな中にも、充分なる劇性の備わっている音楽が奏で上げられていた。
リゲティに傾倒しているノットならではの、さすがの演奏だった。そのように言いたくなる演奏でありました。
続くドビュッシーの≪夜想曲≫では、滑らかにしてまろやかな音楽が奏で上げられていました。
思うに、前半の2曲では、色彩感を強調したプログラムにしたかったのではないでしょうか。或いは、玄妙な音楽世界の広がるプログラムにしよう、といった意図があったのかもしれません。リゲティに続いて、この≪夜想曲≫が鳴り響いているのを聴いていますと、そんなふうに思えてきてならなかった。
そう、≪夜想曲≫では、まろやかでありつつ、色彩鮮やかで、生彩感に富んだ演奏が展開されていたのであります。また、静・動・静のコントラストが鮮やかでもあった。とりわけ、第2曲目の「祭り」での、躍動感に満ちていて、弾力性に富んでいた演奏ぶりには、≪ロンターノ≫から≪夜想曲≫の「雲」にかけてスタティックな音楽が続いていただけに、一気に目の前が開けて、光彩豊かな音楽が鳴り響くことへの喜びといったものを覚えたものでした。
そして、全曲を通じてエレガントでもあった。もっと言えば、馥郁とした薫りの漂う演奏となっていた。その様は、デュトワが大阪フィルに客演した際のものに似ているようにも思えた。
ノットによるドビュッシーが、こんなにも素晴らしいとは、驚きでありました。
かように、満足度の高い前半を終え、メインのブラームスでも素晴らしい演奏に巡り会うことができるのだろうと、いよいよ期待を大きくしたものでした。
さて、ここからはメインのブラームスについてでありますが、前半での演奏とは打って変わって、納得の行かないものとなりました。と言いますのも、ノットのブラームス像と言いましょうか、ブラームスの音楽をどのように捉えているのかを、理解するまでに至らない演奏となっていたのであります。私にとっては、そのような演奏になっていた。
ノットは、ブラームスを壮麗な音楽に仕上げてゆこう、といった意図は、はなから持っていなかったようです。概して、軽量級であり、清々しさを強調しようとしていたようでした。音楽を大音量によるベッタリとした音で敷き詰めてゆこう、といったこともほぼ皆無だったと言えそう。そう、それは「概して」であったり「ほぼ」だったりであって、全てにおいてそうだったという訳ではなかったのですが。このような印象は、とりわけ冒頭の序奏において顕著でありました。それは、拍子抜けするほどにサバサバとしたものだった。序奏部は、音楽がうねりながら進んでゆく、といったことは皆無だった。
このようなアプローチを、全面的に否定するつもりはありません。あまりブラームスらしくないことは確かでありますが、清新なブラームスを目指すのも、「有り」だと思うのです。古楽器による演奏が台頭してきた現代では、このようなアプローチによるブラームスも、歓迎されて然るべきでありましょう。
古楽器的な演奏法を採り入れているという点では、概してテンポが速めで、テキパキと進められていたことも挙げられます。また、第1楽章の主題提示部のリピートが敢行されていたのも、当然なことだと思われました。
しかしながら、全てが古楽器系の演奏スタイルが採られていた訳ではありません。と言うよりも、外観上のみ、古楽器系の影響を受けているといった感じで、時には、途轍もないほどにロマンティックな素振りを見せもしていた。その最たるものは、第1楽章の第2主題でのクラリネットとホルンによる掛け合いの箇所(148小節目から)だと言えそうで、極端なまでにテンポを落として、夢幻的な音楽世界を出現させようとしていた。
その落差たるや、極めて大きなものとなっていたのですが、その表情は、何かワザとらしい。と言いましょうか、取ってつけたような音楽になっていた。また、その直後での、ヴィオラによる動き(157,8小節目)は、極端なまでのレガートが施されながらおどろおどろしく弾かれて、まるでお化けでも出てくるようだった。その辺りも含めて、なんともワザとらしい音楽になっていた。もっと言えば、気ぜわしい音楽になっていた。
その一方で、展開部も随分と進んで行って、頂点を極めようとしている箇所で出てくるクレッシェンドとディクレッシェンドとが代わる代わるに表記されている場面(252小節目から260小節目にかけて)では、波が寄せては引くような「うねり」を生むことがなく、素っ気ないものとなっていた。また、再現部に入ったところ(339小節目)での昂揚感も、さして大きなものとなることはなかった。この辺りは、この楽章の「ツボ」とも言えそうな箇所なのですが、ノットは、あまり興味を抱いていないかのようだった。
それでいて、最終楽章の展開部が最高潮に達した場面での、小節の頭に8分休符が入る箇所(279小節目から)では、ノットもかなり興奮していたようで、走り気味になっていた。また、最終楽章の終結部、アッチェレランドでテンポを上げていきながらPiu Allegroとして終着点を迎える箇所(391小節目)では、アッチェレランドした結果のテンポよりも速いテンポで驀進していった。そんなこんなで見せていたのは、理性をかなぐり捨てた姿でもあった。
そのような姿と、全般的に見せていた姿とに、整合性が感じられない。それ故に、焦点のぼやけた演奏になってしまっていたとも言いたい。
(ところで、私には、理性をかなぐり捨てた姿がノット本来のものだとも思えて仕方がありません。と言いますのも、2015年の初夏の時期だったと記憶していますが、ノット&東京交響楽団によるベートーヴェンの交響曲第5番を聴いた知人が、ノットは赤鬼の如く顔を紅潮させながら熱く奏で上げていったと、興奮しながら語ってくれていたからであります。それこそが、ノット本来の姿なのではないのだろうか、と思っている次第。)
更に言えば、2015年の11月に上京した際、東京交響楽団との共演で聴いたドヴォルザークの8番で感じられた饒舌な音楽づくりといったものが、本日のブラームスからも感じられたものでした。そして、場面場面をパッチワークの如く縫い合わせていったような演奏だとも感じられた。
その、11年前に聴いたドヴォルザークでの印象を、次のように書いています。
「ドヴォルザークの第1楽章、正直言って途中までは饒舌だな、と感じていた。その場その場で、言いたいことを全て言い尽くそうとしている。そのため、音楽が頭でっかちになっていて、しかも細切れになってしまっているように感じられた。表現者と作品との間に溝のようなものがあるようにも感じていた。何て言えばよいのかな、そう、演奏者の共感がやや薄くて、頭で考えた結果このような演奏になりましたというように、私の耳に響いていた。しかし、展開部の終盤から、怒涛のごとき作品への熱いパッションが添えられ始め、白熱の演奏へと昇華された。その様は、まさに壮絶であった。はまったときのノットは凄いんだろうな、と感じ入った。」
本日のブラームスは、淡い色調をした音楽づくりを基調としながら、頭で考えた結果による表情をパッチワークのように縫い合わせていった演奏となっていた、といった感を抱いたのでありますが。
そんなこんなが複層的に絡み合った結果として、ノットは、ブラームスをどのように捉えているのだろう、といった思いを抱いてしまったのであります。
ノットという指揮者が、よく解らなくなってしまった。そんな思いを募らせながら、すっきりしない感情で会場を後にしたものでした。





