仲道郁代さんによるピアノリサイタル(ベートーヴェンの最後の3つのソナタ 他)の西宮公演を聴いて

今日は、仲道郁代さんによるピアノリサイタルの西宮公演を聴いてきました。演目は、下記の4曲。
●ベートーヴェン ピアノソナタ第30番
〃 ピアノソナタ第31番
― 休憩 ―
●シェーンベルク ≪6つの小さなピアノ曲≫
●ベートーヴェン ピアノソナタ第32番
仲道さんが、ベートーヴェン没後200年と自身の演奏活動40周年が重なる2027年に向けて企画した、10年間に及ぶコンサートシリーズ「The Road to 2027」。来年、その最終年を迎えることとなりますが、今年は、ベートーヴェンのピアノソナタの終着点であり、頂点だとも看做すことのできそうな最後の3つのソナタが披露されることに。
何故、この3つのソナタを最終年に持ってこないのだろうかと疑問を抱かずにはおれませんでしたが、最終年には≪ハンマークラヴィーア≫(前プロにショパンの≪葬送≫を据えるという2曲プロ)を予定しておられるようです。なるほど、≪ハンマークラヴィーア≫で締めくくるのか。この破格の大作を最後に持ってくるのも、一つの考え方でありましょう。というふうに理解を示しつつも、やはり、10年間に及ぶ壮大にして深遠な旅路の行きつく先としては、最後の3つのソナタが相応しいのではないだろうか。私個人としましては、そのように考えずにはおれません。
その一方で、最後の3つのソナタを1年早く聴くことができるというのは、ある種の僥倖だとも言えそうであります。この至高の音楽だと言い切ってよい3つの最後のソナタを、仲道さんがどのように弾くのかを、1年早く知ることができる(そして、その演奏内容を楽しむことができる)というのは、なんとも幸せなことでありますので。「The Road to 2027」というシリーズの帰結点は今年にあり、残りのもう1年はボーナスのようなものだと受け止めるのも、まんざら悪いことではない。私個人としましては、そんなふうに考えることにしたのでした。しかも、それが≪ハンマークラヴィーア≫なだけに、とびきり豪勢なボーナス、ということになる。
ところで、本日のリサイタルでは、ベートーヴェンの最後の3つのソナタに加えて、シェーンベルクの≪6つの小さなピアノ曲≫が加えられているのが目を引きます。ベートーヴェンの3作のみであっても充分に1つのリサイタルとして完結するだけの重みを持っていると言うのに、演奏時間が僅か5分ほどのシェーンベルクの作品が添えられている。仲道さんは、「生涯の刹那が、凝縮された表現で意味をもたらしてくれる様を、シェーンベルクの6つの小品に聴く。シェーンベルクを聴いたのちに最後の第32番を味わうと、第32番の聴き方が変わると思うのです。このソナタがよりリアルに心に突き刺さり、先に聴いた第30,31番の余韻がより深く心に浸透するように感じます。」と述べられています。10年の長きに亘って繰り広げてきたベートーヴェン没後200年と自身の演奏活動40周年を記念するリサイタルシリーズの最後の年に、ベートーヴェンの最後の3つのソナタとシェーンベルクの作品を組み合わせたプログラムを組むとなると、プログラムとしての純度が下がってしまう、といった印象を抱きかねません。最終年ではないからこそ、このような組合せも許容できると言えるのではないだろうか。そんなふうに思えてしまいます。
そんなこんなを含めて、聴きどころの多いリサイタル。どのような演奏に巡り会えるのか、とても楽しみでありました。
それでは、本日のリサイタルをどのように聴いたのかについて、書いてゆくことに致します。

前半での演奏と、後半での演奏との間の、感銘度の開きの大きなリサイタルだった、というのが正直なところでありました。
前半の2曲は、実に素晴らしかった。それは、仲道さんの演奏の素晴らしさもあるのですが、それ以上に、曲の素晴らしさが身に沁みる演奏となっていたのでありました。と言うことはすなわち、仲道さんの演奏が途轍もなく素晴らしかった、ということになるのですが。
仲道さんは、2000年代の前半から中頃にかけてだったでしょうか、ベートーヴェンのソナタを集中的に採り上げ、CDでもソナタ全集を制作し、それらが高く評価されて「ベートーヴェン弾き」としての名声を獲得されたように思います。とは言え、私としましては、仲道さんのことを、傑出したピアニストの1人であることは認めつつも、傑出したベートーヴェン弾きだ、というふうには受け止めていませんでした。なるほど、これまでに、魅力的なベートーヴェンを、幾つか実演で聞かせてくれていました。しかしながら、それらは、魅力的な音楽として受け止めてきた。
しかしながら、本日の前半で演奏された2曲は、間違いなく「傑出したベートーヴェン弾きによる演奏だった」と言いたい。それは、ベートーヴェンのピアノソナタ第30,31番の至高な音楽世界を、全く誇張することなく、見事に弾き切っていた演奏だった、と言い換えても良いでしょう。
この2曲では、ベートーヴェンに特有の闘争的な性格は薄い。とは言うものの、ベートーヴェンでの音楽に備わっていて欲しい逞しさ(それは、単に音響の面での逞しさに限ったものではなく、精神的な逞しさを兼ね備えたものだと言えましょうか)や、力感や、強靭さや、壮麗さや、といったものを内蔵した音楽であって欲しい。そのような点において、仲道さんによる演奏は、文句のないものとなっていたのでありました。
しかも、それらが押しつけがましく示されていた訳ではなかった。いや、むしろ、暖かみや、優しさを伴った形で提示されていた。と言いつつも、控えめだったということもない。充分に決然としてもいた。そのようなところも含めて、「ベートーヴェン弾き」としての演奏が展開されていたのだ、と言いたいのであります。
なるほど、第30番の第3楽章での第5変奏(対位法の手法が用いられている)や第6変奏(この楽章の手段が戻って来たと思わせながら、更に大きく変転されてゆく)では、今一つ峻厳さや、強靭さに乏しかったように思われました。しかしながら、それはほんの些細な不満。全体的に、この2曲の音楽世界を、自然に、かつ、豊かに描き上げてくれていた。そんなふうに言いたい。内田光子さんのようなストイックさがなく、伸びやかでもあり、作品のなかに抵抗なく入りこめるのも好ましかった。
(もちろん、内田光子さんによるベートーヴェンも、実に立派であり、私は大いに惹かれるのでありますが。)
そのうえで、冒頭に戻るのですが、ただただ曲の素晴らしさが身に沁みる、という音楽が鳴り響いていた前半の2曲。それが、ベートーヴェンの最後の3つのソナタにおける演奏での出来事だったのだと、ということもあり、放心状態に近い形で休憩を迎えたのでありました。
ここからは後半についてとなりますが、そこで演奏された第32番では、前半ほどの感銘を受けることはありませんでした。
と、メインの第32番について書く前に、その前に演奏されたシェーンベルクから。
静謐な音楽世界の広がる演奏でありました。精妙な音楽が鳴り響いてもいた。とは言うものの、暖かみを帯びていた。このことは、仲道さんの演奏に共通した特徴だと言えましょう。
プログラム冊子には、不条理や無常さが籠められた作品だ、といった仲道さんの言葉が掲載されていましたが、そのような印象の薄い演奏だったと言いたい。それよりももっと、血の通っている音楽になっていたと思えたのであります。
そのうえで、柔らかみを帯びていつつも、精巧な音楽が奏で上げられていた。至純な音楽だったとも言えそう。
その「至純」という点で、ベートーヴェンの最後の3つのソナタと重なるところがある、ということで、この作品を組み入れたのでありましょう。とは言いつつも、敢えて、この作品をプログラムに組み込む必要があったのかな、という疑問を抱かざるを得なかった、というのが正直なところでありました。とは言え、決して「邪魔な存在だ」とも思わなかったのですが。
それでは、ここからは第32番についてであります。
出だしは、頗る毅然としたものになっていました。それは、主部に入っても継続されていた。仲道さんによる演奏にしては、と言いましょうか、かなり強靭な演奏ぶりでもあった。
しかしながら、第2主題に向かってゆく箇所では、音楽が停滞していたように思われた。切迫感も希薄だった。これまでに、仲道さんは傑出したベートーヴェン弾きだというふうに受け止めることはなかった、と書きましたのは、この辺りに起因してのことなのであります。
前半の2曲は、愛に満ちた音楽だと、プログラム冊子に掲載されている文章でも、演奏の合間に挟まれたトークでも、仲道さんは強調されていました。なるほど、そのように捉えることができましょう。そして、そのような性格を色濃く反映させながら、至純にして自然な息吹の吹き込められた音楽を奏でていった、前半での仲道さん。しかしながら、第32番では、そうはいきません。第1楽章では、かなり闘争的な性格を帯びている。昂然と立ち向かってゆく音楽でもある。更には、緊迫感や焦燥感を帯びてもいる。(そこへゆくと、第30,31番は、内省的であり、インティメートな音楽だと言える。)
仲道さんの演奏からは、そういった、第32番が孕んでいる性格が希薄だったように感じられたのであります。音楽における「蠢き」といったものも薄かった。
第2楽章は、第1楽章ほどには闘争的な音楽ではありません。もっと内省的な音楽であります。そのような音楽を、優しさに満ちて弾き始めた仲道さん。とは言うものの、今一つ心に沁み入ってこない。何と言いましょうか、予定調和的に聞こえてきた。それは、第1楽章との対比、といったところが十分ではないからでありましょうか。すなわち、緊張と弛緩といったものの対比が乏しいものになっていたのだと。
そのような中で、第3変奏では、躍動的であったり、強靭であったり、荒々しかったり、といった性格から離れた演奏を展開していた点に、大いに惹かれたものでした。ユニークな美しさを湛えた音楽が鳴り響いていたのであります。
そんな第3変奏を経て、第4変奏、更には第5変奏と、音楽はグングンと高みへと向かってゆくことになり、かつ、深淵を覗くような音楽になってゆくのですが、この箇所での演奏が、恍惚としたものになっていなかった(と言いましょうか、聴いていて恍惚としてこなかった)のが、本日の第32番での演奏において、最も満足できなかった点でありました。
昨年の秋、内田光子さんによる演奏で、あれほどまでに「打ちのめされた」というのに。それはもう、別世界に誘われたような音楽になっていった。儚いとか、繊細だとか、そういった表現を超越した音楽でもあった。聴いていて、魂が抜かれていくような思いを抱いたものでもあった。そのような内田さんによる演奏での感銘に比べるまでもなかった、本日の第32番。
なお、アンコールは無しでした。第32番の後に演奏する曲など、あろうはずがありません。





