雪の京都と、阪哲朗さん&関西フィルによるベートーヴェンの≪ミサ・ソレムニス≫
今日は、阪哲朗さん&関西フィルによる演奏会を聴いてきました。
演目は、ベートーヴェンの≪ミサ・ソレムニス≫。
独唱陣は、下記の通りであります。
ソプラノ:老田裕子さん
メゾ・ソプラノ:八木寿子さん
テノール:清水徹太郎さん
バス:平野和さん
ところで、本日の演奏会とは全く関係のない話になりますが、昨夜から、京都は大雪に見舞われました。朝起きると、辺りには白銀の世界が広がっていた。本日の京都市は、最深の積雪量としては8cmを記録したそうです。
大阪への移動には阪急電車を利用している私。阪急嵐山駅に向かう途中に渡った渡月橋の周辺は、まるで山水画の世界のようでした。
足元が悪いのには閉口しましたが、雪の嵐山も、情趣深くて良いものです。
電車で移動してゆくと、京都市内の景色が嘘だったかのように、雪の姿が消えてゆく。演奏会会場のザ・シンフォニーホール周辺は、雪とは全く無縁な、普段と変わらない景色が広がっていました。
さて、本題の演奏会について。
2023年から、びわ湖ホールの芸術監督に就任されている阪哲朗(ばん てつろう)さん。その、びわ湖ホールで、オペラ・ガラコンサート、≪こうもり≫全曲、≪ばらの騎士≫全曲と、3つの実演に接してきましたが、コンサートでの演奏に接する(と言いましても、演目が≪ミサ・ソレムニス≫ですので、純粋なコンサートとは言い切れないかもしれません)のは、今回が初めてでありました。
びわ湖ホールでの実演では、あまり良い印象を持てていません。総じて、演奏ぶりに几帳面さが窺えて、音楽が生硬なものに聞こえてしまいがち、といった印象を受けてきたのであります。
オペラを離れた阪さんの演奏、はたして、どのようなものになるのでしょうか。しかも本日は、≪ミサ・ソレムニス≫という超弩級の作品が相手。期待と不安の入り混じった心境で、会場に向かったものでした。
それでは、本日の演奏をどのように聴いたのかについて、書いてゆくことに致しましょう。
これまで、あまり印象の良くなかった阪さんですが、本日の≪ミサ・ソレムニス≫は、大いに共感のできる演奏となっていました。
まずもって、気負いのない演奏ぶりだと思えた点に好感を持ちました。ベートーヴェンの≪ミサ・ソレムニス≫は、変に有難がったり、神妙な面持ちで相対したくなったり、といった傾向の強い作品だと言えるのではないでしょうか。神棚に祭り上げなくてはならない音楽だ、といった感じで捉えられがちだとも言えそう。
そこへゆくと、本日の阪さんによる演奏からは、そのような素振りが殆ど感じられませんでした。ごく一般的に、「素晴らしい作品に相対する」といった姿勢だったように思えたのであります。その結果として、沈鬱な音楽、といった表情が微塵も見受けられなくて、明朗にして、伸びやかな音楽が奏で上げられることとなっていた。場面によっては、歓びに満ちた音楽が鳴り響いていた。
更に言えば、ベートーヴェンにありがちな、威圧的であったり強靭に過ぎたり、といった演奏ぶりも殆ど見られなかった。総じて、柔らかみを帯びていて、まろやかな音楽づくりが為されていて、音楽がしなやかに呼吸していました。
そんなこんなによって、親しみのある≪ミサ・ソレムニス≫が鳴り響いていった。このような感触は、この作品では、なかなか得ることが難しいと言えるのではないでしょうか。とても大きな美徳になっていたとも言いたい。
そのうえで、句読点の明瞭な音楽づくりが為されていたのに感心させられました。もっと言えば、この作品の場面場面での性格の描き分けがクッキリと為されていたように思えた。それゆえに、頗る生き生きとした演奏となっていて、かつ、この曲の音楽世界に安心して身を任せることのできる演奏となっていたのであります。
それは例えば、付点のリズムを明快に処理しようといった意思が明確に見えてきた点にハッキリと窺えました。また、「キリエ」の真ん中辺りで3拍子に変わった箇所(86小節目)には”Andante assai ben marcato”という指示が記されているのですが、チェロ・バスによるピチカートを意識的にマルカートで鳴らしてゆく(音に丸みを持たせながら、ひとつひとつの音をはっきりとさせ、なおかつ、音楽に弾みを付けてゆくように奏でてゆく)ことを要求していて、この箇所の性格をクッキリと描き上げてくれていました。いま挙げたよう例は、他にも随所で見られ、そのことによって、この作品に散りばめられている性格が明瞭に、かつ丹念に、描き分けられていったと言いたい。
もう少し、具体例を挙げてゆくことにしようと思います。
全曲の中でも特に、「グローリア」において、例を引きたくなる箇所が多く見受けられました。
47小節目や49小節目にアクセントが付いていますが、これらのアクセントが眼に見える形で鳴らされていたようでした。そのことによって、文字通り、音楽にアクセントが与えられていた。また、83小節目以降の3拍目(3拍子の3拍目)から始まる旋律は、弱起の音楽となっている訳ですが、その妙味を生かしてゆくべく、性格的に奏で上げられていた。185小節目では、ベートーヴェンには珍しくfffが指定されている(ベートーヴェンによる記譜では、音量の大きな箇所でもffまでの表記が多く、fffが記されるのは稀なのであります)のですが、シッカリとした音圧による音楽が鳴り響いていた。更には、このナンバーの終結部とも呼べそうな525小節目からのPrestoなどは、祝祭的な気分が横溢した音楽が鳴り響いていて、「グローリア」を盛大に、かつ、印象的に結ぶことに成功していたと言いたい。
ここからは、異なるナンバーから例を挙げてゆこうと思います。ということで、終曲の「アニュス・デイ」から。
164小節目からは、軍楽隊の音楽と呼べるような、ティンパニとトランペットが主導する音楽となり、小気味良くありつつも、不穏な空気が漂うこととなります。雰囲気が、これまでとはガラリと変わる。しかも、独唱陣はレチタティーヴォ風に立ち回るように指示されていて、頗る自由度の高い歌となる。その分だけ、劇的な効果を上げるような音楽になるのですが、その妙味がシッカリと生かされていた。また、284小節目のホルン、更には296小節目から4小節間にわたってのホルンを、かなり強調していて、音楽を思いっ切りえぐってゆくこととなっていた。更には、326小節目からのトランペットとティンパニによるリズミカルな動きでは、明瞭、かつ、音を打ち込んでゆくような演奏ぶりとなっていて、その場面に誠に相応しい演奏が展開されていた。かように、そのような劇性の豊かな音楽世界が描き上げられながら、最後には安寧の世界へと導かれてゆき、この演奏が閉じられることとなった。
と、ここまでは、本日の阪さんの演奏ぶりに感心させられた点を書いてきたのですが、全く不満が無かった訳でもありませんでした。
例えば、「キリエ」の冒頭部分は、少々、悠然に過ぎたように思えた。もう少し、流動感を持たせても良かったのではないでしょうか。但し、3拍子に変わった86小節目(先に触れました、”Andante assai ben marcato”と記された箇所)からは、流動感が出てきました。
また、「グローリア」は、輝かしさに満ちた音楽づくりが為されていて、それはそれで良いのですが、冒頭部分などでは、仕上げが少し雑だったと言いましょうか、勢いに任せ過ぎていて、緻密さを欠いた演奏となっていたように思えたものでした。特に、トランペットの処理が、雑なように感じられた。
更には、「アニュス・デイ」の131小節目で、オケと合唱がズレて(ヴァイオリンの動きに注視しすぎていたようだった)、ヒヤッとしてしまいました。同じ動きが241小節目にもあり、こちらのほうでは131小節目に比較すると注意が行き届いていたように思われましたが、それでも若干ズレていたようでした。
そして、次に挙げるのは、びわ湖での≪ばらの騎士≫で気になったことなのですが、楽団員や歌手たちの目を見ずに事務的に出してゆくアインザッツ(そのアインザッツは、愛情に欠けたものに思えてならなかった)は、今日はかなり影を潜めていました。シッカリと共演者の目を見ながら、合図を送っている箇所が多かった。但し、「グローリア」のフーガの部分など、忙しくアインザッツを出さなくてはならない箇所になると、スコアに目をやるのが大変になるということもあったようですが、アイコンタクトが疎かになり、投げやりなアインザッツを繰り出すこととなっていました。この点は、阪さんの根本的な「癖」のように思えてきます。
なお、「ベネディクトゥス」のヴァイオリンソロは、今一つ音の抜けに乏しかったように思えたのが残念でした。とは言いながらも、かすかに聞こえてくるソロに耳を傾けてゆくと、その演奏ぶりは、清潔感が漂っていて、凛としたもののようでした。そうであるだけに、音が埋もれがちだったのが余計に残念に思えてきたものでした。
かように、幾つかの不満はあったものの、総じて素敵な演奏だったと言えましょう。何よりも、この作品の魅力を、変に身構えずに味わうことのできた演奏だったというのが、とても尊いことだと言いたい。「アニュス・デイ」の前半部分などは、≪ミサ・ソレムニス≫の中でも最も峻厳な音楽だと言えそうなのですが、それでも、さして峻厳な雰囲気は漂わなかった。
なるほど、この作品には、「高邁な精神」が宿っていると言えましょう。人類への愛情に溢れ、それゆえの「神を貴ぶ心」といったものが刻まれているとも言いたい。それは、彼岸的というよりも、とても現世的なもののように思える。
そのうえで、変に神妙ぶることなどせずに、魅惑的な音楽世界にドップリと身を浸していくことによって、途轍もなく大きな幸福感を得ることのできる音楽となっている。
本日の演奏を聴いていて、そのような思いを強く持ったものでした。