飯森範親さん&日本センチュリー響による演奏会(1/12開催)を聴いて

昨日(1/12)は、飯森範親さん&日本センチュリー響による演奏会を聴いてきました。演目は、下記の2曲。
●ショスタコーヴィチ ヴァイオリン協奏曲第1番(独奏:三浦文彰さん)
●ブルックナー交響曲第3番(1873年ノヴァーク版第1稿)

これまでの私の実演体験からすると、飯森さんは、ダイナミックでスリリングな演奏を繰り広げる、という印象が強い。そのような飯森さんが、ブルックナーでどのような演奏を聞かせてくれるのか、興味深いところでありました。
(採り上げられるのが交響曲第3番と、比較的初期の作品のため、中期以降の作品と比べるとブルックナー色はさほど濃くない音楽への取組みだとも言えそうですが。)
しかも、初稿を使用するという点で、差異化を図ろうとしているのではないだろうか、といった飯森さんの思惑のようなものが感じ取れます。
また、前半でショスタコーヴィチを弾くヴァイオリン独奏の三浦文彰さんは、以前に数回、実演に接しています。直近では、昨年の3月にコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲を聴いていますが、いずれの演奏会でも、押し出しの強さがあまり感じられないヴァイオリニスト、という印象が強い。
この日のショスタコーヴィチは、そのような演奏ぶりだと、なかなか太刀打ちできそうにない作品だと言えそう。どのような演奏を繰り広げられてくれることになるのだろうかと、こちらにも注目しながら会場へと向かったものでした。

それでは、演奏会をどのように聴いたのかについて、触れていきたいと思います。まずは、前半のショスタコーヴィチから。
三浦さんによる独奏は、ある程度、予想していた通りでありました。彼ならではの、折り目正しくて、端正で、凛とした演奏ぶりが示されていた。しかしながら、これまでの印象とは、少し異なる点も感じられました。すなわち、これまでに実演で接した演奏と比べると、線の太さが加わっていたように思えたのであります。更に言えば、風貌にも変化が感じ取れた。
その風貌でありますが、以前に比べて、体型がふくよかになっていたように見受けられました。その分、風格のようなものが漂っていた。また、顔つきにつきましても、はっきりと見て取れた訳ではありませんが、髭を蓄えていたようにも見えた。
そのような風貌の変化も相まって、良い意味での「ふてぶてしさ」のようなものが発散されていたように思えたものでした。そして、その雰囲気が、演奏にも反映されていたようにも感じられた。このことが、これまでにあまり感じられなかった「野太さ」に繋がっていた。そんなふうに思えたのでした。
とは言いながらも、以前からの三浦さんの特徴も、そこここから感じられた。その最大の印象は、演奏から「お行儀の良さ」が滲み出ていたという点。良くも悪くも、そのような性格の強い音楽になっていた、と言いたい。
それが故に、この作品が備えている、煽情的な側面や、冴え冴えとした表情や、背筋が凍りつくような冷徹さや、厳格とも言えそうなストイックさや、身を切るような切迫感や焦燥感や、といったもののが、あまり感じ取れない音楽となっていた。長大なカデンツァも、緊迫感の張り詰めた音楽になり切っていなかったように思えた。
その代わりに、全編を通じて、キリッとしていて、かつ、美麗な音楽が響き渡っていた。まろやかさや、艶やかさが漂ってもいた。
例えば、冒頭楽章は、あまり動きを伴わない音楽であり、その分、極度に緊張感に満ちていて、非情とも言えるような音楽が響き渡る、という印象が強いのですが、三浦さんが奏でる音楽からは暖かみが感じられた。そのうえで、線の太さが最も強く感じられたのが冒頭楽章でありました。
更に言えば、テクニック的にも、間然するところがなかった。この難曲を、少しの破綻もなく、流暢に弾きこなしていた。第2,4楽章での機敏さの表出なども、見事だったと言いたい。
この日の三浦さんによるショスタコーヴィチを総括すると、純音楽的な美しさが前面に押し出された演奏だったと言えましょうか。しかしながら、この作品の魅力は、もう少し違ったところにあるのではなかろうか。そのような思いを抱きながら聴いたものでありました。
そのような三浦さんをサポートした飯森さんもまた、流暢で、かつ、端正な演奏ぶりを披露してくれていました。そのうえで、とりわけ最終楽章に顕著な、この作品が持っている躍動感にも不足はなかった。作品のツボをしっかりと押さえながらの、機敏な演奏ぶりだったと言いたい。
なお、ソリストによるアンコールは無し。この作品の「重量」や、この作品を演奏するために費やされるソリストの負担や、といったことを考えると、その措置も頷けます。

それでは、ここからは、メインのブルックナーについてであります。
飯森さんらしい、と言いましょうか、颯爽としたブルックナー演奏でありました。流麗な演奏だったとも言えそう。
その一方で、初稿が採用されていたことによって、未整理な感じでフレーズが現れたり、唐突感のある構成から生じる無骨な雰囲気が漂ったりして、野人的な手応えが加えられた格好となっていた。そのことが、ブルックナー的な(原初的なブルックナー世界とも言えそうな)佇まいを生むことに繋がっていたように思えた。その辺りを踏まえての、初稿の選択だったのかもしれません。
流麗な歌と、清々しさと、スッキリとした佇まいと、輝かしさとが同居していたブルックナー演奏。そこに、初稿のゴツゴツとした手触りが加わる。そんなふうにも表現できそう。
編成が小ぶりだったり(弦楽器のプルト数は6-5-4-4-3)、対向配置が採用されていたり(第3楽章の冒頭の、第2,1ヴァイオリンが交互に弾いてゆく場面などで、面白い効果を発揮していた)、といったところも、演奏に清新さをもたらしてくれていたと言えそう。
(ちなみに、前半のショスタコーヴィチでも対向配置が採られていました。)
それでいて、最終楽章の最後などは、弦楽器の刻みがクッキリと浮かび上がりながらの高揚感たっぷりな音楽が響き渡っていて、ホールを輝かしい(煌びやかでもあった)音で満たしていた。
(シンフォニーホールの豊かで芳醇な音響が、大きく貢献していたとも言いたい。)
ブルックナーにしてはちょっと異質な演奏だったとも言えそうですが、独特の魅力を備えていた、素敵なブルックナー演奏でありました。