河村尚子さんによるピアノリサイタル(モーツァルトのピアノソナタ第14番、ベートーヴェンの≪悲愴≫ 他)の西宮公演を聴いて

今日は、兵庫県立芸術文化センターで、河村尚子さんのピアノリサイタルを聴いてきました。
演目につきましては、お手数ですが、下に添付する写真でご確認くださいますようお願いいたします。

ここ3年ほどの間、何度か実演に触れてきた河村尚子さん。それは、協奏曲であったり、室内楽であったりするのですが、ソロ・リサイタルに接するのは、ちょうど2年前の9月以来であります。
河村さんによる演奏の美質は、真摯な音楽づくりをベースにしながら、柔軟性を持った、伸びやかな音楽を奏で上げてゆく、という点にあるのではないでしょうか。端正な音楽づくりで、素直でケレン味がなく、作品の「実像」のようなものを誇張なく描いてゆく、といった音楽を聞かせてくれる。
以上については、2年前のリサイタルでの演奏からも、明確に聴き取ることができました。更には、そこで演奏されたプロコフィエフのピアノソナタ第7番の≪戦争ソナタ≫では、強靭な音楽づくりを基調としながら、静と動の、或いは、柔と剛のコントラストを、クッキリと付けた演奏を展開してくれてもいた。
そんな河村さんが、本日は、前半ではモーツァルトとベートーヴェンによるハ短調で書かれたソナタの名作を弾く。また、後半では、ドビュッシーとショパンの諸作を散りばめてくれている。古典派と、ロマンティックかつ詩情の豊かさを含んでいる色彩的でイメージ広がりを持った作品とを、対にしながら織り交ぜたプログラム。河村さんが、どのような演奏を志向するピアニストなのかを、ハッキリと確認できるようなプログラムだと言えるのではないでしょうか。それだけに、どのような演奏に出会うことができるのか、とても楽しみでありました。

それでは、本日の演奏会をどのように聴いたのかについて、書いてゆくことに致します。

まずは、前半の2曲について。
なんとも素晴らしい演奏でありました。それは、これまで聴いてきた河村さんによる演奏の延長線上にある演奏ぶりだったとも言えそうなのですが、会場に赴く前に抱いていた期待を上回る素晴らしさでありました。特にモーツァルトが!!
2曲に共通して言えること(もっと言えば、本日の演奏全般についても当てはまること)、それは、河村さんならではの、真摯な演奏だったということ。そのうえで、息遣いが豊かで、多彩でもあった。
モーツァルトの第1楽章は、速めのテンポを基調としながら、ポキポキと弾いてゆく。そのために、この楽章に備わっているデモーニッシュな雰囲気が十分に漂っていつつも、あまりおどろおどろしくなかった。スタイリッシュであり、かつ、凛とした佇まいをしていたのであります。それは、粒立ちの鮮やかな響きを伴いながらの、キリっとした演奏ぶりであったことにも依っていたのだとも言えそう。その結果として、毅然とした音楽が鳴り響いていた。
とは言うものの、第2主題に入る手前で、テンポをガクンと落として、ロマンティックな感興を織り交ぜもする。それがまた、全く恣意的でなく、真実味を帯びていた。
この箇所に限らず、河村さんは、時に思い切ってロマンティックな表情を与えてゆく。しかしながら、音楽のフォルムが崩れるようなことは皆無。それは、一つ一つの表情付けを、心の底から感じ切ったうえで施していたからなのでありましょう。
なお、第1楽章の主題提示部はリピートを敢行してくれていました。それは、ベートーヴェンの≪悲愴≫の第1楽章においても然り。やはり、リピートを行ったほうが、形式感というものがクリアになります。
さて、ロマンティックな感興と言えば、第2楽章の中間部、ベートーヴェンが≪悲愴≫の第2楽章で引用した旋律が出てきた直後の演奏ぶりは、ロマンティシズム溢れる音楽づくりの極みであり、かつ、モーツァルトとは思えないほどに色彩的であり、音楽が激流のように流れていった。それはもう、度肝を抜かれたほどに。とは言え、そのことによって、やはり、作品のフォルムが崩れるようなことはなかった。この辺りはまさに、河村さんの真摯な姿勢を裏付けとした音楽づくりの賜物なのでありましょう。
また、第3楽章では、しばしば音楽は中断されるのですが、その言い切り方が実に決然としていた。しかも、中断されながらも、次への流れが頗るスムーズでもあった。これもまた、河村さんの音楽性の豊かさ故なのでありましょう。
いずれにしましても、聴いている間じゅう、なんと素晴らしい作品なのだろうという思いが込み上げてきて、モーツァルトへの感謝の念が湧いてきたものでした。それはすなわち、河村さんの演奏の素晴らしさ故だったのですが。
聴いていて溜息をつきたくなる瞬間の連続で、幸福感に包まれてくる演奏だった。表情付けが多彩でありつつも、モーツァルトならではのピュアな世界の広がる演奏でもあった。
河村さんへの感謝の念も湧いてきたものでした。
続く≪悲愴≫でも、真摯な演奏が展開された。そして、ドラマティックでもあった。第1楽章の第1主題などは、まさに嵐のようであり、疾駆感に富んでいた。
その一方で、第1楽章の展開部に入ってすぐの箇所、序奏部が戻ってきたところでは、さめざめと泣くような悲壮感を滲ませてもいた。頗る緊張感の強い音楽になってもいた。本日の≪悲愴≫での演奏の白眉は、ここだったのではないでしょうか。
次の第2楽章は、優しさに満ちた音楽が鳴り響いていた。なおかつ、テンポの微妙な変化も含めて、息遣いの豊かな演奏でありました。また、第3楽章では、流れの滑らかな音楽が奏で上げられていった。
ちなみに、本日の演奏会は、曲と曲の合間などで、河村さんによるトークが挟まれていました。この点は、2年前に聴いたリサイテルでもそうだった。河村さんによるリサイタルでは、いつものことなのかもしれません。
そのトークで、モーツァルトのピアノソナタ第14番の第2楽章で使われているフレーズが、≪悲愴≫の第2楽章に引用されていることが説明されていました。その際、他にも引用があると話されていましたが、具体的には説明されていませんでした。それはひょっとすると、第3楽章の最後の最後の箇所が、モーツァルトの≪魔笛≫の中の、第1幕でモノスタートスがパミーナを追いかけながら登場するシーンの引用だと紹介したかったのではないでしょうか。この箇所の音楽は、第3楽章の主旋律から派生したものではありますが、≪魔笛≫のあの場面に酷似している。私はいつも、ここに差し掛かると≪魔笛≫を思い出してしまします。心なしか、本日の河村さんによる演奏は、この最後の箇所に差し掛かった際に、ちょっとタメを作って思わせぶりに弾いていたように思えたものでした。
かように、こちらも実に多彩な演奏ぶりであり、見事な演奏ぶりでありました。しかしながら、ベートーヴェンへの感謝、といったところまでは至りませんでした。或いは、溜息をつきたくなる場面も多々ありましたが、その連続だったとは言い切れない。その点で、モーツァルトでの演奏のほうに軍配を上げたい、というのが正直なところであります。

それでは、ここからは後半での演奏について。
後半もまた、素晴らしかった。そのうえで言いたいのは、前半に比べると、色彩的な性格の強い演奏となっていた、ということ。それは、とりもなおさず、作品が持っている性格が反映された結果だと言えるのでしょうが。そしてやはり、多彩なピアニズムを味わえる演奏となっていました。しかも、そこには誇張は一切含まれていない、といった形で。
まずもって、ドビュッシーが、実に鮮やかな演奏となっていました。隈取りが鮮やかで、力強さを備えながらの、ダイナミズムが感じられるドビュッシーとなっていた。その点では、ちょっとドビュッシーらしくなかったとも言えそう。
その一方で、色彩の移ろい、といったところは明瞭に現れていて、ドビュッシー独特の律動的な運動も鮮やかに表されていた点は、ドビュッシーらしさを感じさせてくれました。
一方のショパンでは、マズルカでの民族舞踊としてのリズミカルな動きの面白さや、曲想の多様性や、といったところの描き上げ方や、夜想曲での物憂げな表情や、バラードでの毅然としていながらの強靭な音楽づくり等など、多彩な描き分けが為されていました。それらが、作品に寄り添い、共感しながら音楽を奏で上げていっているのだ、ということを痛感させられる演奏ぶりとなっていた。先ほど、「多彩」と書きましたのも、この辺りがあってのことであります。
しかも、他での演奏と同様に、音の粒立ちがクッキリとしていて、響きが凛としていた。そのこともあって、詩情豊かでありつつも、とてもクリアなショパン演奏になっていたとも言いたい。
とは言うものの、音楽に惹き込まれる力は、前半のモーツァルトほどではありませんでした。本日の白眉はモーツァルトだったのではなかろうか。そう思えてなりません。

なお、アンコールとして、まずはフランス繋がり(ショパンは、ポーランドを離れた後は、ずっとパリで過ごすこととなった)で、フォーレの≪即興曲≫の中の1曲が披露されました。
フォーレならでのエレガントな雰囲気に包まれていながら、内側から立つさざ波、といったもの感じられ、印象深いアンコールとなりました。
その後で、アンコールの追加として、本編でも弾かれたドビュッシーの≪版画≫から終曲が、もう一度演奏されました。
本編での演奏と比べると、より一層、隈取りの鮮やかさや、色彩感の強さや、といったものが表されていたように感じられたものでした。それは、プログラム全体を弾き終えた後の解放感によって、より一層、興が乗ったからなのかもしれません。
モーツァルトでの演奏に次いで、深い感銘を受けたのが、アンコールでのドビュッシーでありました。