アンドリス・ネルソンス&ボストン響の京都公演を聴いて

昨日(11/10)は、アンドリス・ネルソンス&ボストン響の京都公演を聴いてきました。演目は、下記の3曲。
●ショウ ≪Punctum≫(オーケストラ版)~日本初演
●モーツァルト 交響曲第40番
●R・シュトラウス ≪アルプス交響曲≫

ネルソンスも、ボストン響も、実演に接するのは初めて。
ネルソンスがボストン響のシェフに就任したのは2014年ということで、もう8年前になるのですね。このコンビによる来日は5年ぶりで、今回の来日公演の中では、昨日の横浜公演でのマーラーの交響曲第6番に続いて、今夜が2回目の演奏会となります。そして、この演奏会は、京都とボストンの姉妹都市交流コンサートでもあるようです。
はたして、どのような演奏に出会うことができるのかと、ワクワクドキドキしながら会場へ足を運んだものでした。

演奏会を聴き終わってというもの、幸福感に浸りっぱなしでありました。その大半は、ボストン響の素晴らしさに依るものだと言いたい。まさに、ボストン響に心奪われた演奏会でありました
ふくよかで、艶やかな響きの、なんと美しかったこと。それはもう、現実離れした美しさと言いたいほど。魔法が掛けられているかのように美しかった。しかも、バリバリ弾いている訳ではないのに、豊かな響きがしていた。トゥッティでは、特定のセクションが突出するようなことはなく、マイルドにブレンドされた音が、まろやかに響き渡っていた。それはまさに、芳醇な響きと形容するのに相応しい音だった。
そのうえで、アンサンブルが緻密。と言いましても、巧さをひけらかしているような雰囲気は、微塵も感じられない。どんなに難しいパッセージも、オーケストラ全体が込み入ったことをやっている箇所でも、こともなげに整然と演奏してゆく。その結果として、機械的な巧さとは一線を画した、「端正で凛とした巧緻な音楽」といったものが立ち昇っていた。

前プロのショウによる≪Punctum≫は、オリジナルは2010年に初演され、2013年に改訂された弦楽四重奏曲とのこと。その作品が弦楽合奏に編み直され、今年の夏に世界初演され、今回の来日公演が日本初演になる。アンドリス・ネルソンスとボストン響の委嘱作品になるらしい。演奏時間は10分少々。
その曲は、調性のハッキリしている音の連なりと、調性の不明確な中での音の連なりが交錯したり(しょっぱなから、そのような開始でありました)、拍子が時に不明確になったり(拍子の異なる音が同時に発せられたり)と、不安を掻き立てる要素が織り込まれつつ、すぐに調和を取り戻す、といったことが繰り返される音楽でありました。全体的に見れば、調和の取れている音楽が鳴り響いていることのほうが遥かに長い。そして、同じ音が連続して奏で上げられる箇所が多い。そのような音楽を聴きながら、ボストン響の弦楽器群の、ふくよかで艶やかな音色に、ただただ聴き惚れていた。そのような10分少々でありました。
作品がどうの、というところを飛び越えて、ただただ、ボストン響の弦楽セクションの素晴らしさに圧倒された前プロでありました。

モーツァルトでは、ネルソンスの表情付けが細かすぎて、モーツァルトの天衣無縫な性格が減退していたのが残念でありました。
表情付けが細かいがために、やることが多すぎて、テンポを速く採るとその中に納まり切らないのでしょう、第1楽章などは、快速な音楽とはなっておらずに、私には緩慢に聞こえた。更に言えば、モーツァルトならではの飛翔感に乏しい音楽となっていたように思えた。最終楽章は、出だしこそネルソンスはオケを煽って速めのテンポで開始していたのですが、途中でテンポが僅かではあるが遅くなっていた。そのために、主題提示部がリピートされた際には、仕切り直しとばかりに、開始した際のテンポに戻して煽り直したりしていた。再現部に入って、提示部での音楽が戻ってきたところでも、同様の仕切り直しが行われていた。
ちなみに、リピートは、かなり励行されていました。ソナタ形式が採られている第1,2,4楽章の主題提示部は、全て楽譜通りにリピートしていました。但し、第2,4楽章に書き込まれている展開部・再現部のリピートは、ともにカットされていた。
前述のとおり、ネルソンスによる音楽づくりは、天衣無縫な性格や、飛翔感の乏しいものだと思えたと同時に、細かな表情付けに煩わしさのようなものが感じられたのですが、ネルソンスの細かな指示を肉付けしてゆくボストン響の素晴らしさには、ここでも感心させられました。ネルソンスの表情付けを「外観」と称すならば、ボストン響が奏でる充実した音を「内面」と捉えることができるように思え(この両者は、多くの場合、「外観」と「内面」は逆と捉えるものだと思えますが、この日のモーツァルトでの外観と内面は、上記の通りであるように思えた)、その素晴らしさに聴き惚れていたのでありました。
そして、モーツァルトでも、巧まざる形での妙技に唖然とさせられた。その筆頭は、最終楽章の主題提示部での第1主題から第2主題へと移行する経過部で、8分音符でせわしなく駆け巡る動き(48小節目ないし49小節目から、61小節目にかけて)におけるヴィオラとチェロ・バスの巧さ。音がモゴモゴすることなく、クリアに弾かれてゆく様は、驚愕ものであったとともに、胸のすく思いをした。

さて、話をメインの作品に移しましょう。それはもう、圧倒的なアルペンでありました。
ここでも、ボストン響の素晴らしさは絶大。と言いますか、アルペンでの演奏から受けた感銘の8割くらいは、ボストン響によるものだと言いたい。音響は目くるめくほどの鮮やかさであり、アンサンブルは精緻であり、ゆとりを持ちながら掻き鳴らされていつつもパワフルであり、そんなこんなが混然一体となって私を魅了した。しかも、終始、コクがあって豊穣な音楽が鳴り響いている。
トゥッティでの、特定のセクションが突出することのないマイルドにブレンドされたまろやかな音が、洪水のように押し寄せてくる。それでいて、どんなに強奏されても、威圧感は全くない。ましてや、美観を損ねるようなことなど一切ない。今、目の前で繰り広げられていることは、ひょっとしたら夢なのではないだろうか。そんなふうさえ思えてきたものでした。そして、夢ではないことを確認すると、今まさに、極上のオーケストラ演奏に触れているのだという感慨が湧き上がってきて、胸がいっぱいになった。
ボストン響の魅力を堪能するには、≪アルプス交響曲≫は最適な作品なのではないだろうか。そんなふうに思えてなりませんでした。
そのようなボストン響を相手に、ネルソンスは、ゆったりとしたテンポを基調としながら、雄大な音楽を奏で上げてくれていた。
演奏が終わると、数回、Braviを叫んでしまいました。

ホールから帰路に就いている間じゅう、「あぁ、これがボストンなのか!!」と、つぶやき続けていた私。
その時間も含めて、幸せな幸せな、演奏会体験でありました。