カンブルラン&京都市交響楽団による演奏会(マーラーの≪悲劇的≫)の初日を聴いて

今日は、カンブルラン&京都市交響楽団による演奏会の初日を聴いてきました。
演目は、マーラーの交響曲第6番≪悲劇的≫。
カンブルランが京響の指揮台に登るは、2023年11月の定期演奏会以来で、2年半ぶりのこと。前回は、ブルックナーの≪ロマンティック≫をメインに据え、モーツァルトの≪パリ≫を前プロに置いた2曲プロでありました。その後、2024年3月にはPACオケを指揮したベルリオーズの≪幻想≫他の演奏会を聴いていますので、私にとっては2年ぶりのカンブルランによる演奏会ということになります。
その、京響とのブルックナーは、作品を肥大化させずにスッキリと、それでいて、十分に壮麗に掻き鳴らしてゆく、といった演奏でありました。響きは輝かしく、かつ、マイルド。総じて、美麗なブルックナー演奏で、そのうえで、ズシリとした手応えを備えていた。
そんなこんなによる、バランス感覚に優れていて、センスの良さの感じられる演奏だな、といった印象を受けたものでした。
本日のマーラーも、その延長線上にある演奏が繰り広げられるのではないだろうか。であれば、きっと素晴らしい演奏になることだろうと、期待しながら会場に向かったものでした。
なお、中間の2つの楽章は、1990年辺りから主流になった、アンダンテ⇒スケルツォの順で演奏されました。
それでは、本日の演奏会をどのように聴いたのかについて、書いてゆくことに致します。

ホールの外観写真を撮影する際、夕焼けがガラスに映り込んでいました。
ホールの到着は18時15分頃。随分と日も長くなりました。
期待した通りに、と言いましょうか、作品を肥大化させずにスッキリと、それでいて充分に壮麗に奏で上げていった演奏でありました。
出だしからして、頗るスッキリしていた。そう、全く威圧的に開始させたということはなかったのであります。しかも、最初の5小節の間で音量を膨らませていって、壮大な行進曲が開始されたのだ、という印象をシッカリと与えてくれる音楽づくりが為されていたのが見事でありました。帰宅してスコアを確認すると、ここにはクレッシェンドが記されている(クレッシェンドの表記は、4小節目からとなっているのですが)。その結果として、フォルテで開始された音楽が、本格的にドラマが動き出す6小節目でフォルティシモに到達する。そのことを、ハッキリと認識させられる開始だったと言えましょう。
また、テンポはややゆっくりめで、先を急ぐようなことがなく、確実な歩みのもと音楽は開始された。そのようなことを印象付ける出だしとなっていて、ここに、カンブルランの強い意志を(と言いつつも、決して押しつけがましさは感じられなかった)見出すことができたのであります。
ちなみに、第1楽章の主題提示部はリピートされていました。そのリピートの際、出だしでの演奏以上に最初の音量は絞られていて、音量を漸増させてゆく、といった措置が採られていたことも、頗る印象的だった。この点も帰宅してスコアで確認すると、このリピート箇所(1番括弧の中)は、ピアニッシモからフォルティシモへのクレッシェンドとなっている。まさに、その通りの音楽が奏で上げられていたのであります。作曲家の指示に忠実であれば、そこでの演奏は強い説得力をもって鳴り響くこととなる、と常々考えているのですが、そのことを、ここでも痛感したものでした。
なお、第1楽章はリピートされていながらも、全曲での演奏時間は82分ほど。そう、出だしこそやや遅めのテンポが採られていましたが、テンポの収縮が頻繁に為されていて、必要に応じて音楽を存分に煽っていった。特に、最終楽章は総じて速めのテンポが採られていて、流麗な音楽が鳴り響いていたのであります。起伏に富んでいて、かつ、気宇が大きくもあった。
とは言いながらも、決して力むようなことはなかった。例えば、第1楽章の終結部(練習番号37、Piu mosso subitoの指示のある箇所)は、他の多くの演奏では、躍起になりながら、やや乱痴気騒ぎになってしまいがちだと言えそうな箇所ではありますが、ゆとりを持ってオケをドライブしていた。それでいて、この場面に相応しい躍動感は十分だった。
続くアンダンテ楽章は、最初のうちは、ややダレた演奏になっていたようにも感じられたのですが、終盤になって(クラリネットによる繊細なソロの直後の146小節目、Etwas zurückhaltendの指示のある箇所辺りから)、音楽がうねりだした。テンポが激しく伸縮していき、そのことによって、ここでの音楽の息遣いが明瞭に示されることとなり、グイグイと引き込まれていったものでした。
なお、アンダンテ楽章でのホルンのソロは、音を押し気味に吹いてゆくことが多く、その点は閉口してしまいました。この楽章以外では、そのような傾向は殆ど見られず、最終楽章などでは、伸びやかで、かつ、雄弁なソロを繰り広げてくれていただけに、アンダンテ楽章での吹きっぷりが残念でありました。ちなみに、終演後、カンブルランが真っ先に立たせていたのがホルンのトップ奏者でした。この作品は、ホルンが活躍する箇所が多いだけに、真っ先に立たせるのも納得ではあります。しかも、アンダンテ楽章でのソロ以外は、なかなかに魅力的な、そして、立派な演奏を繰り広げてくれていた。そんなこんなに思いを巡らせながら、複雑な思いで起立している姿を眺めたものでした。
続くスケルツォ楽章は、本日の演奏の白眉だったでしょうか。主部では諧謔性がシッカリと示されていた。その一方で、再三にわたって現れるトリオ部に相当する箇所では、舞踊性に富んだ演奏が展開されていった。プレトークでカンブルランは、この楽章で示されてゆく「ダンス」の性格を強調して語っていましたが、その拘りがハッキリと聴き取れる演奏となっていたのであります。その「ダンス」は、とてもしなやかで、かつ、優美でもあり、主部での諧謔性を更に強めてゆくこととなってもいた。
そのようなことも含めて、コントラストのクッキリとした、克明な音楽が鳴り響いていた。このことは、本日の演奏全体に当てはまることではあったのですが、スケルツォ楽章において特に顕著だったと言いたい。ちなみに、クラリネットによるベルアップ(そのことによって、けたたましい音が鳴る)が実に効果的でもあった。そのことが、この演奏の鮮烈さを際立たせていたようにも思えたものでした。
最終楽章は、先にも書きましたように、頗る流麗な演奏が展開されていた。そして、とても克明な演奏となっていた。それでいて、潤いのある演奏だった。色彩的でもあった。潤いがあり、色彩的でもあった、という点は、全ての楽章での演奏について当てはまりましょうが、この楽章において特に顕著に感じられたものでした。
そのうえで、この楽章は、性格がコロコロと変転してゆく音楽となっている訳でありますが、その処理が手際良く、かつ、見通しが良くて、理路整然と音楽がすすんでゆく、といった演奏だったとも言いたい。
全体を通じて、スッキリとしていつつも、充分にドラマティックであり、必要に応じて音楽がシッカリとうねっていた。それでいて、決して威圧的ではない。そして、音楽が豊かに息づいていた。
マーラーに特有の情念的な性格は薄く、流麗な演奏ぶりだった。とは言うものの、聴き応えの十分な演奏だった。
秀演だったと言えましょう。





