フェニーチェ堺での藤原歌劇団による≪ラ・ボエーム≫(公演日:12/8)を観劇して

昨日(12/8)は、フェニーチェ堺で藤原歌劇団による≪ラ・ボエーム≫を観てきました。キャストは、下記の通り。
ミミ:砂川涼子さん(S)
ロドルフォ:藤田卓也さん(T)
ムゼッタ:米田七海さん(S)
マルチェッロ:押川浩士さん(Br)
ショナール:森口賢二さん(Br)
コッリーネ:久保田真澄さん(Bs)
ベノア:折江忠道さん(Br)
アルチンドロ:東原貞彦さん(Bs)
パルピニョール:山内政幸さん(T)
合唱:藤原歌劇団合唱部
児童合唱:堺シティオペラKid’s Chor
管弦楽:ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
指揮:柴田真郁さん
演出:岩田達宗さん

フェニーチェ堺を訪れるのは初めてのこと。
意欲的な公演を数多く舞台に掛けているとの情報は目にしていたのですが、我が家からの道のりが遠いために、聴きに行くことをついつい見合わせてしまっていました。しかしながら、訪れてみますと、思っていた以上に立派な建物で、屋内外ともに綺麗だったことにビックリ。この日に観劇した大ホールは4階構造で収容人数は2000。大き過ぎず、小さ過ぎず、適度な大きさで、よく響くホールだったようにも思えました。更には、年末ということなのでしょう、イルミネーションもとても美しくて、目も楽しませてくれました。
さて、この公演の最大のお目当ては砂川さんによるミミ。砂川さんを聴くことができるのだと思っただけで、これまで躊躇していたフェニーチェ堺に足を運んでみようと決心したものでした。
砂川さんが歌うミミに接するのは初めてになりますが、清冽な声質と抒情性の豊かな歌いぶりからするとピッタリな役だと思われるだけに、大いなる期待を抱きながらホールへと向かったものでした。
併せまして、指揮者の柴田真郁(まいく)さんにも注目。私にとりましては初めて名前を聞く指揮者でありましたが、オペラでの指揮を中心に活動されているよう。ドイツやスペインなどで研鑽を積んだとのこと。今年45歳を迎えていて、中堅の指揮者と言えそうです。
来年には、柴田さんが指揮するラヴェルの≪子供と魔法≫も聴きに行くことにしています。まずは≪ラ・ボエーム≫でどのような音楽づくりを見せてくれるのかと、こちらも楽しみにしていたものでした。
なお、オーケストラは、「大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウス」の専属管弦楽団として1988年に組織されたプロの楽団だそうです。

それでは、この日の公演をどのように聴いたのかについて、書いてゆくことにしましょう。
まずもって、砂川さんによるミミが期待以上に素晴らしかった。
砂川さんを初めて聴いたのは、2001年9月に上演された新国立劇場での≪トゥーランドット≫のリューでありました。次いで同年12月に≪ドン・カルロ≫の中の端役とも言える天の声を聴いて、更には2002年6月に≪カルメン≫のミカエラに接することに。
リューとミカエラで聞かせてくれた抒情的な美しさを湛えた歌唱に、大いに魅了されたものでした。更に言えば、リューやミカエラが持っている律儀な性格がクローズアップされていたという思いを抱いたものでした。短期間のうちに新国立劇場で立て続けに砂川さんの歌に触れることができ、実演体験を重ねるうちに、私にとっては現役の日本人ソプラノの中で不動の位置を占めるに至ったのであります。
リューとミカエラで感じられたことが、この日のミミにも当てはまります。ミミの律儀さが滲み出ていた。しかも、押しつけがましさが全くなく、頗る自然な形で。そして、実に折り目正しく描かれてゆく。そのうえで、清冽で頗る抒情性が高い歌唱が繰り広げられていた。
更に言えば、ほんの些細なセリフにも、真実味が籠っていた。第1幕で、ロドルフォと手が触れて「あっ」と漏らした言葉でさえ、真実味に溢れていて、聴いていて引き込まれる。ミミを演じているというよりも、ミミそのものになっていた、といった感じ。
基本的には、繊細にして、情感の豊かな歌が繰り広げられていました。それでいて、決して豊かな声量で聴き手を圧倒するといったスタイルではないものの、強音には凛とした美しさを湛えていて、玲瓏としている。それだけに、聴く者の胸に深く染み渡る歌になっていたと言えましょう。第3幕でのアリア「恨みっこなしに、別れましょう」では、悲哀に満ちた歌が披露されてもいた。
第3幕まで、理想的なミミがここにいると感じながら、聴き進めていったものでした。聴く者をして、完全にミミに感情移入させてゆくような歌であったとも言いたい。しかしながら、それはまだ序の口だったのです。最終幕は、まさに圧巻でありました。異次元に素晴らしかった。
この幕では、ミミは瀕死の状態でロドルフォをはじめとした4人のボヘミアンが住む一室に担ぎ込まれます。そのために、か細い声で歌うのは理にかなっている訳ですが、実際に舞台でそのように歌うとなると、音楽が貧弱になりがちで、なかなか上手くはいかない。しかしながら、砂川さんは、それを見事に成し遂げたのであります。
声は、極めて小さい。それはもう、「蚊の鳴くような」と言いたくなるほどに。それでも、声は大ホールの隅々にまでシッカリと届いていた。(届いていた、などという言い方が相応しくないほどに、実在感のある「音」がホールを満たしていた。)
ミミの儚さや(それは、命の儚さにも繋がっていきそう)、ロドルフォとの出逢いを回想する場面でのいじらしさや、といったものがない交ぜになって、私の胸をきつく締め付けるような最終幕でありました。
こんなにも素晴らしいミミを聴くことができたことに、いくら感謝してもし足らない。そのような感慨に浸ったものでした。

次に触れたいのは、ムゼッタを歌った米田さん。
この役は、高音が頻繁に出てくるために、どうしても金切り声になりがちになります。とりわけ、第2幕がそう。米田さんにもその傾向がありはしました。しかしながら、嫌味がなかった。ヒステリックだとも思えなかった。むしろ、ムゼッタの勝ち気な性格を明確にさせてくれる方向に働いていたように思えた。しかも、高音以外は、しっとりと歌っていて、息遣いが自然でもあった。
第3幕になると、第2幕ほどには高音が出てこない(とは言え、マルチェッロと罵り合う場面では、声を荒げなくてはならない)ため、絶叫が気にならない。いや、マルチェッロとの罵り合いの場面などは、凄みがあった。本当は罵りたくないのに、罵らざるを得ないといった悲哀のようなものが感じられもした。
(第3幕の最後では、他の登場人物が舞台から立ち去ってもムゼッタだけが一人佇んでいるという演出が採られていて、視覚的にも悲哀を増してくれていました。)
そして、米田さんもまた、最終幕が秀逸だった。この幕でのムゼッタは、ミミへの親愛の情を滲ませながら機転を効かせてゆくことになりますが、そのようなムゼッタの甲斐甲斐しさが見事に表現された歌いぶりとなっていて、グッと惹きこまれたものでした。

女声陣の2人に大いに感心させられた公演でありましたが、男性陣のほうは、それからするとちょっと疑問の残る歌いぶりでありました。
まずは、ロドルフォの藤田さんについて。
喉のコンディションが万全ではなかったのかもしれません。と言いますか、「冷たい手を」の前半で喉の調子がおかしくなった感じ。時おり、声がひっくり返りそうになりながら発声をしていた。常にそうだった訳ではなく、輝かしい声を聞かせてくれる箇所も少なからずあったのですが、声をシッカリと支え切れていたとは言えそうにない箇所が散見された。「冷たい手を」のハイCも、無理やり声を張り上げていたように感じられたものでした。最初のうちは、全4幕を歌い切ることができないかもしれないと心配したほど。
この日の公演では、第2幕が終わったところで1回目の休憩が入り、第3幕の後に2回目の休憩が取られました。休憩を挟んでの第3幕では、喉の調子がやや回復したように思えた。第2幕までのような不安定さがなかった。とは言え、砂川さんが端正な歌を繰り広げる横でロドルフォを歌うのは、かなりハードルが高かったと言えそう。そして、ちょっと気の毒にも思えた。砂川さんがあまりに見事であったがために、歌のフォルムの粗さが目立つこととなっていた。
マルチェッロを歌った押川さんは、威勢が良すぎたといった感じ。それはそれで悪いことではないのですが、あまりスタイリッシュに思えなかった。そう、力で押し切ることに主眼が置かれ過ぎていたようで、マルチェッロという役に備わっていて欲しい、颯爽とした風情や、粋な味わいといったものが充分に出し切れていなかったように感じられたのでした。
似たようなことが、ショナール役の森口さんにも感じられた。
そこへゆくと、久保田さんによるコッリーネは、哲学者でありつつも、愛嬌のある人物像をシッカリと描いてくれていたように思えました。安定感のある歌いぶりでもあった。この役の最大の聞かせどころであります第4幕のアリア「外套の歌」では、どっしりと構えていながらも哀愁の漂う歌が披露されていた。
なお、第4幕の前半部分では、4人のボヘミアンたちが全員とも、真摯な歌を聞かせてくれていたのには感心させられました。ここでは4人による「じゃれ合い」が演じられる訳ですが、実に生き生きとしていた。誠に屈託なく演じられていた。ムゼッタがミミを連れて部屋に飛び込んでくることによって、その快活な場面が一瞬にして閉じられます。そこの場面が賑やかで屈託がなければないほど、ミミの「最期」の悲痛さが際立ってくる。実にコントラストの鮮やかな演奏となっていました。

さて、ここからは、指揮者の柴田さんについて。この日の公演を魅力あるものにしてくれた功労者として、女声陣の2人とともに柴田さんを挙げたい。
その音楽づくりはというと、誠に的確。作品の生命力をしっかりと放出してくれていました。音楽にしなやかさがあり、輪郭の鮮やかな演奏が繰り広げられていた。そのうえで、とても逞しかった。オペラティックな感興にも、全く不足がなかった。プッチーニの作品で許される範囲で、適度に鮮烈でもあった。
歌手陣を、シッカリと支えていった柴田さんの指揮。第4幕前半でのボヘミアンたちによる「じゃれ合い」が生き生きとしていた理由の大きな部分を、柴田さんが担っていたとも言いたい。
そのような柴田さんに対して、オケも充分に応えてくれていた。とりわけ、木管群が、粒立ちがクッキリとしていたのには感心させられました。
また、合唱団もこの公演をシッカリと支えてくれていた。とりわけ、第2幕での児童合唱が、ノビノビとしていて、かつ、ハキハキしていて実に心地よかった。合唱が巧いと、オペラの公演が締まります。

なお、この公演の舞台装置は、大正から昭和にかけてパリを拠点にして活動した洋画家の佐伯祐三が、パリを描いた絵画を土台にしたものとのこと。30歳でこの世を去った悲運の画家が描き出した、荒々しくて重苦しい空気感を湛えた世界観が、このオペラにマッチしていたように思えました。
藤原歌劇団は、この演出を(そして、この舞台装置を)10数年にわたって使っているようです。そして、この劇団の「宝物」でもあるとのこと。そのようなことがよく理解のできる舞台でありました。

全てが満足できた訳ではありませんが、充分に楽しむことのできた公演でありました。
そもそもが、オペラの上演において、全てに満足できるというのは滅多にないこと。幾つかの満足が得られれば、それで上等。しかも、砂川さんによるミミから得られた感銘は、破格なものだった。
満ち足りた気分で、ホールを後にしました。