デ・フリーント&京都市交響楽団による演奏会(フライデー・ナイト:モーツァルトとシューマン)を聴いて

今日は、デ・フリーント&京都市交響楽団による演奏会を聴いてきました。演目は下記の絵曲。
●モーツァルト ≪グラン・パルティータ≫
●シューマン 交響曲第2番

京響は、2022年から、定期演奏会を2日間開く場合は、初日となる金曜日には「フライデー・ナイト・スペシャル」という冠を付けて、通常よりも短めで、かつ、安価な演奏会を提供するようになっています。そこには、開演を19:30にして仕事帰りにも足を運びやすくする、といった意図もあるようです。しかも、休憩なしで演奏が提供される。
これまでは、京響の定期演奏会を聴きに行く際には、通常尺の土曜日の演奏会にのみ通っていました。しかしながら、今回は初めて「フライデー・ナイト・スペシャル」を聴いてきました。と言いますのも、短めのプログラム構成と言いましても、今月はほぼ通常尺と変わらないボリュームの演目となっていることと、土曜日の演目よりも金曜日の演目の方が、私には親しみが持てるものとなっていたためであります。しかも、なかなか実演で接する機会のないモーツァルトの≪グラン・パルティータ≫が組み込まれているという、魅力的なプログラミングになっている。

<参考・明日のコンサートのプログラム>
メンデルスゾーン ≪真夏の夜の夢≫序曲
ペルト 弦楽と打楽器のためのフラトレス
~休憩~
ダウランド 弦楽合奏のための≪あふれよ、涙≫
シューマン 交響曲 第2番
(今月に関しては、正味の演奏時間では、土曜日の演奏会よりもフライデー・ナイトの方が長くなっています。)

デ・フリーントは、今季から京響の首席客演指揮者に就任した指揮者。1982年に古楽のレパートリーをメインに活動する合奏団であるコンバッティメント・コンソート・アムステルダムを設立して、音楽監督、コンサートマスター、指揮者を務めたという経歴の持ち主であります。
昨年5月には京響の首席客演指揮者就任披露として定期演奏会に出演し、ベートーヴェンとシューベルトを指揮しました。そこでは、輪郭をクッキリと隈取りしながら、キリっとしていて、かつ、凝縮度の高い演奏を繰り広げてくれて、好感を持ったものでした。しかしながら、アンコールで演奏された≪アイネ・クライネ・ナハトムジーク≫の第3楽章では、いびつなまでに音楽の構造を表面化させたり、恣意的にねっとりとした音楽を奏で上げたりと、興醒めしてしまう音楽づくりを施していた。
そのようなこともあって、本日のモーツァルトとシューマンではどのような演奏を聞かせてくれるのだろうかと、期待と不安とが入り混じった状態で、会場に向かったものでした。

それでは、本日の演奏をどのように聴いたのかについて書いてゆくことに致しましょう。

≪グラン・パルティータ≫とシューマンでのデ・フリーントの音楽づくり、対照的だったように思えます。すなわち、前者では、まろやかで優美な演奏ぶりを示してくれていた。テンポも、どちらかと言えば遅めであることが多かった。古楽の畑をメインに活動してきた指揮者にしては、ちょっと珍しい方向性だったと言えそう。
その一方で、シューマンではエッジの効いた音楽づくりを施していました。速めのテンポを基調としながら、キビキビと進めてゆく。輪郭線を際立たせながら、克明な音楽が鳴り響いていました。
また、プレトークでは、この曲はシューマンのオイゼビウス的な性格とフロレスタン的な性格とが錯綜することに注力しながら説明をされていたのですが、実際の演奏は、かなりフロレスタン的な側面の強調されていた演奏だったと思えたものでした。すなわち、快活にして積極的で、躁状態のシューマンの姿が大半だったようにも感じられた。
と言いましょうか、緩徐楽章となる第3楽章以外は、活気に溢れた音楽ばかりが鳴り響いていた。実に輝かしくて、スリリングであり、扇情的な音楽となっていた。とてもエネルギッシュでもあった。
プレトークの際、デ・フリーントは、しばしばメロディを歌い上げながら解説を進めていたのですが、その歌いぶりの多くは、頗るエネルギッシュであり、情熱的なものでした。それは、昨年5月の演奏会でのプレトークでも同様だった。デ・フリーントの音楽に対する基本的なスタンスは、この辺りにあるように思えてきます。
更に言えば、ティンパニを際立たせながら、尖鋭であり、目鼻立ちの鮮やかな演奏を繰り広げていた。スパッ、スパッと、一つ一つをキッチリ言い切ってゆく演奏ぶりであって、威勢が良く、かつ、潔い演奏ぶりだったとも言いたい。
最初のうちは、そのような演奏ぶりに興奮しながら聴いていました。聴く者をホットな気持ちにさせてくれる音楽が鳴り響いていた。しかしながら、途中からあまりに一面的に思えてきて、音楽に奥行きが感じられなかった、というのが正直なところであります。もっと言えば、全体的に「騒がしい」ばかりの音楽になっていた。
なるほど、第3楽章では、オイゼビウス的な性格が、すなわち、内省的で思索的な側面がクッキリと描かれていました。しかしながら、その他の楽章でも、内省的であったり思索的であったり、といった表情が表されてしかるべきでしょう。その辺りがおざなりになっていた演奏だった。そんなふうに思えてなりませんでした。
とは言いつつも、これだけ活気に溢れていて、逞しい筆致が貫かれていて、かつ、激情的なシューマンも、なかなか聴けるものではないと言えましょう。その様は、なんとも見事でありました。終演後は、会場は大いに沸いていましたが、それも頷ける熱演だった。
この作品が備えている「フロレスタン的な」性格が存分に描き上げられていた、好演だったと言いたい。

この辺りで、≪グラン・パルティータ≫に立ち返りたいと思います。こちらも、作品の素晴らしさがしみじみと伝わってくる演奏が展開されていました。
≪グラン・パルティータ≫を聴いていると、しばしば思いを駆け巡らせることなのですが、モーツァルトは、なんと魅惑的な音楽を書いてくれたのだろう、という思いがフツフツと湧いてきます。何気ないパッセージが、なんともチャーミング。更には、ここで用いられている木管楽器の特性が存分に生かされていて、実に彩りが鮮やかで、変化に富んだ音楽が紡ぎ上げられてゆく。それでいて、音楽の流れは極めて自然。しかも、頗る流麗なものとなっている。そのようなことが複次的に絡み合って、魔法に掛けられているかのような魅力的な音楽が鳴り響くこととなる。
本日の演奏においても、モーツァルトの手になる魔法は、全く色あせることがなかったのであります。
しかしながら、時おり、アウフタクトの採りかたに甘さが感じられることがあるのが残念でありました。モーツァルトの作品を演奏する難しさなのでしょう。あまり攻撃的に過ぎてはモーツァルトの音楽を壊しかねません。とは言っても、甘すぎると、音楽がボヤけてしまう。その辺りの葛藤に陥ってしまうような演奏だったとも言えそう。そのようなことに考えを巡らせながらも、やはり、全体的にもっと鋭さを追求しても良かったように思えたものでした。
シューマンで、あれだけ鋭角的で、隈取りの明瞭な演奏を展開してくれていただけに、余計に、そのように思えたものでした。