2026年度の全国共同制作オペラにおけるヴェルディの≪イル・トロヴァトーレ≫の枚方公演を観劇して

今日は、枚方市総合文化芸術センターでヴェルディの≪イル・トロヴァトーレ≫を観劇してきました。
この公演は、2026年度の全国共同制作オペラ。金沢、大阪(枚方)、東京、新潟の順で、各都市1回ずつの公演が持たれることとなっています。
本日は、飯坂純さんという方の指揮で、大阪フィルがピットに入ることに。演出は、高岸未朝さんという方。
プログラム冊子に、全4公演のキャストが掲載されていますので、そちらを撮影した写真を添付します。配役については、お手数ですが、添付写真をご参照ください。

生涯で25のオペラ(改作物も含むと27作)を世に送り出したヴェルディ(1813-1901)。≪イル・トロヴァトーレ≫は40歳になる年の1853年に初演された(同じ年には、≪ラ・トラヴィアータ(椿姫)≫も初演される)、ヴェルディにとって17作目のオペラでありました。
≪ナブッコ≫が大成功のうちに迎え入れられた1842年以降、ヴェルディは毎年のように新作オペラを発表し、2つの新作を手掛けた年も少なくない。ヴェルディ自身、この時期を「ガレー船時代」(ガレー船を漕ぐ奴隷のように働いた、苦役の時代、といった意味)と呼んでいますが、≪ラ・トラヴィアータ≫を発表した後の48年間には、7作のオペラを書いたのみでありました。これは、ヴェルディの創作の泉が枯渇してしまったことを意味するのではなく、時間に追われずに仕事を選べる余裕を手に入れることができた、という環境の変化からなのでありました。
そのようなヴェルディによるオペラの中でも、≪イル・トロヴァトーレ≫は、最も旋律美に溢れた作品だと看做すことができましょう。それこそ、アリアや、明確なナンバーとして識別することのできる重唱や、といった箇所以外にも、輝かしい旋律が惜しげもなく注ぎ込まれてゆく。
ヴェルディのオペラで、最も偉大な作品は何だろうかと問われると、私は≪オテッロ≫だと答えることにしています(私は、≪オテッロ≫に対して畏敬の念を抱いており、イタリア・オペラの最高峰を占める作品だと考えている)が、最も好きなオペラは、となると、≪リゴレット≫か≪イル・トロヴァトーレ≫ということになりましょう。それほどまでに、≪イル・トロヴァトーレ≫の旋律の美しさと、そこから生まれる輝かしさに、私は魅了されているのであります。
そのような≪イル・トロヴァトーレ≫の実演に接することができる。それだけでも胸が躍るのですが、本日のキャストの、なんと充実していること。
中でも、マンリーコを歌う笛田さんと、ルーナ伯爵に扮する大西さんは、聴く者を圧倒する力(それは、声の威力のみならず、役柄への性格表現の強さなども含めて)を備えた歌唱を繰り広げてくれるに違いない。そんな期待で胸を膨らませながら、それこそ、意気揚々と会場に向かったものでした。
それでは、本日の公演をどのように受け止めたのかについて、書いてゆくことに致しましょう。

期待していたものとは随分違う公演でありました。聴いていて、血が騒いでこない場面が多かった。その原因の大半は、飯坂さんによる指揮にあったように思えます。
その顕著な例が、第1幕の終盤での、レオノーラ、マンリーコ、ルーナ伯爵による輝かしい三重唱。オケが実に控えめで、独唱陣に対峙する、といったものから大きく掛け離れたものとなっていたのであります。そのために、音楽がドラマティックに渦巻いてこない。なるほど、独唱陣を掻き消さないようにしよう、といった配慮からの措置だったのでありましょう。しかしながら、オケは独唱陣と対等に渡り合ってゆくべき。もっと言えば、オケが独唱陣を煽ってゆく(この箇所のヴァイオリン群の動きは、まさに煽ってゆくようなものとなっている)、或いは、音楽を前へ前へと推進させる原動力となる、そういった役割を果たすべき。それなのに、オケがあまりに遠慮がちだったため、この、興奮度の極めて高い三重唱が、全く燃え上がってこない。その様に、興醒めしてしまった。
なお、この三重唱の最後のほうで、カットが施こされており、そのことで、階段状に昂揚してゆく、といった感興が削がれてしまっていた。あのカットで節約できた時間は、僅か10秒程度でありましょう。そんなために、なぜカットを施す必要があったのでしょう。不思議でなりませんでした。もっと言えば、この作品への愛情といったものが欠如しているのではないだろうか、とも思えてきたものでした。
なお、カットは、第2幕でのマンリーコとアズチェーナとの二重唱の途中でも施されていました。ここでのカットで節約できた時間は、第1幕での場合よりも随分と長いものとなり、「費用対効果」は上がってのたでしょうが、それでも、本来あるべき姿を知る者からすれば、流れが唐突になってしまい、許しがたいものがあった。
1970年代辺りまでは、こういったカットも常習的に行われてきました。しかしながら、原典を重んじる風潮の強くなった当世で、こうしたカットを(平気で)行う神経には、疑問を抱いてしまいます。指揮者の「責任感」といったものにも、疑問符が付いてしまう。
また、冒頭でのフェランドによる場面でのオケは、ブンチャッチャッ、というリズムを刻むことが多いのですが、その扱いが、なんとも平板だった。ブンチャッチャッは、中期までのヴェルディの大きな魅力の一つであり、そのことによって、簡潔でありながらも生気に富んだ音楽が生まれることとなります。弾力性を帯びることにもなる。しかしながら、本日のブンチャッチャッは、お行儀が良すぎて、音楽がなかなか弾んでこない。これはもう、この時期のヴェルディを演奏するに当たっては、致命的だと言えましょう。
もう少し、例を挙げていきたい。
第2幕の後半でルーナ伯爵が歌う、ゆったりとしたテンポによるアリアでは、テンポを揺らして過ぎて、というよりも拍を溜め過ぎていて、音楽がダレてしまうこと著しかった。なるほど、音楽的には、拍を溜めたくなることは理解できます。しかしながら、そのことの垂れ流しと言えるほどの節操のなさで、音楽の流れがまどろっこしくなること、夥しかった。音楽が、全くスタイリッシュな形を採るようなことから、どんどんと離れてゆく。
(バスティアニーニが歌った、このアリアの、なんとスタイリッシュであったこと。)
この辺りは、指揮者のセンスの問題なのでありましょう。
また、第3幕の冒頭の「兵士の合唱」は、ノッペリとした音楽づくりで、音楽に抑揚がない。生気にも乏しい。音楽が無為に流れてゆく。そんな、聴いていて虚しくなってくる演奏ぶりだった。
但し、この「兵士の合唱」以降は、比較的、躍動感を持って演奏されていました。アズチェーナとルーナ伯爵との手に汗握る二重唱も、オケに推進力があった。そのような中で、大西さんの歌いぶりに覇気があまり感じられなかったのが、不思議だったのですが。
更には、第4幕でのレオノーラとルーナ伯爵との二重唱などでは、オケが雄弁になることもあった。当初は、お行儀が良すぎて四角四面だったブンチャッチャッも、第3幕以降では、速いテンポの中で鳴り響くブンチャッチャッチャッ、ブンチャッチャッチャッ、といった音型での扱いなどをはじめとして、生き生きとした表情を見せたりもした。そんな音楽が鳴り響くにつけ、ヴェルディが編み出してくれた音楽への感謝や、ヴェルディへの称賛や、といった気持ちが沸き起ってきたものでした。
ここまで、指揮の飯坂さんについてばかり書いてきましたが、本日の公演への不満の大きな要因の一つとなったのは、マンリーコに扮した笛田さんでもありました。
マンリーコが最初に登場するシーンでの、吟遊詩人として、ハープの伴奏に歌を乗せながらレオノーラを訪ねてくる場面からして、張りのある声で輝かしく歌うというよりも、柔らかさを備えた歌となっていた。それはそれで魅力的だったのですが、これまでに聴いてきた笛田さんとは少々勝手が違うな、という印象を受けたものでした。
そのような中で、異変を感じたのは、第2幕での、マンリーコとアズチェーナによる変化に富んだ二重唱の後半に差し掛かった辺り。高音がスムーズ出ずに、狙った高音がかすれてしまって、かつ、そこに低い声も乗っかるという、弦楽器で言う重音のような声が発せられた瞬間があったのです。本日の笛田さん、喉のコンディションが万全ではないのだな。この先、大丈夫なのだろうか、と案じられもした。
その懸念は、第3幕以降で、いよいよ顕著なものとなっていったのであります。はっきりと解るように、高音が出なくなってきた。それでも、そこでの歌の性格から許される範囲で1オクターブ下げて歌う、といった措置を採りながら、頑張って歌っていたのですが、痛々しいことこの上なかった。もう、こうなると、端正に歌い上げてゆく、などといったことは不可能であります。太陽が燦燦と降り注ぐかのような煌めきに満ちた歌を望むのも、酷なこと。ハラハラのし通しで、マンリーコを見守ってゆく。そんな状態でありました。
ご本人も、かなり苦労されていましたが、それこそ意地や責任感もあったのでしょう、ごまかしごまかししながら、なんとかかんとか最後まで歌い切ったのでありました。カーテンコールでは、喉の辺りを指差ししながら、手を合わせて頭を下げるなどして、客席へ謝罪の意を表しておられました。
なお、これは終演後に気が付いたこと。笛田さんのコンディションについてホール内に張り紙が貼られていて、そこには、喘息のために本来のコンディションではないと記載されていた。なるほどそうだったのか、と感じ入ったものであります。
そんな笛田さん以外の独唱陣でありますが、感心させられたのは、大西さんによるルーナ伯爵と、谷口さんによるアズチェーナ。
大西さん、ひょっとすると、笛田さんへの遠慮も多少あったのかもしれません。これまでに接してきた大西さんと比べると、威勢の良さに不足するシーンが多かったように思えました。飯坂さんの指揮ぶりについて書いた中でも触れたように、第3幕第1場でのアズチェーナとの火を噴くように苛烈な二重唱(私は、このナンバーを聴くたびに、我を忘れるほどに興奮してしまう)での大西さんの歌いぶりには、覇気があまり感じられなかったりした。或いは、第2幕の後半でのアリアも、伸びやかさや滑らかさや、朗々とした雰囲気や、といったものに乏しかったりした(飯坂さんによる間延びした音楽づくりに足を引っ張られた、といった一面もあったのですが)。
それでもやはり、型に嵌ると、ルーナ伯爵の威圧的な態度が、前面に押し出されてくる。頗る憎らしげでもあった。その一方で、第4幕でのレオノーラとの交渉で、レオノーラを手に入れることができることへの喜びの中で見せた表情の、なんと真実味を帯びていたことでしょうか。
やはり、卓越したルーナ伯爵だったと思えます。
谷口さんによる歌には、芯の強さが備わっていた。その結果として、アズチェーナという役に備わっていて欲しい押し出しの強さが、ひいては信念の強さが、表わされることとなっていました。歌いぶりが伸びやかでもあった。更には、この役ならではの哀愁を帯びた表情のも不足がなかった。
そのような中で、第2幕でのマンリーコとの二重唱の半ばあたりで”Strana pieta!(奇妙な慈悲よ!)”と2度繰り返される箇所では、もっと低音を効かせながらの、ドスの効いた声であって欲しかった、といった不満を抱くようなこともありはしました。ここでは、なぜか、重心を高く採りながらの発声が為されていたのであります。しかしながら、総じて、とても立派で、かつ、説得力に満ちたアズチェーナだった言えましょう。
もう一人の主役級の登場人物、レオノーラに扮した木下さんは、清冽な歌いぶりを示すこともしばしばで、そのような箇所では感心させられたのですが、絶叫気味になることも多かった。結果として、歌のフォルムが崩れてしまい、美観を損ねてしまってもいた。その辺りが、惜しくてなりませんでした。
準主役級になりますが、第1幕第1場を取り仕切る重要な役柄でもあるフェランドを歌った田中さんは、バスによる歌にしては声質が軽くて明るかった点に、違和感を覚えてしまいました。どっしりと構えた歌になっていなかった。この、10分ほどの場面で完結するドラマ、といった性格付けが弱くもあった。ここの場面が巧みに演じられれば、聴衆をこのオペラの世界へと引きずり込む力が増してくると思われるだけに、残念な歌いぶりでありました。
この辺りで、話を演出に移しましょう。
音楽が奏で上げられる前に、アズチェーナが赤ん坊を連れ去ってゆくシーンが演じられたことは、面白いアイディアだなと感心させられました。このオペラのストーリーの発端がここにあり、それから恐らく20年ほどが経過した話が、このオペラで展開される訳でありますので。
舞台装置は、城塞のようなセットがあるだけで、それを半開きにしたり、全開させたりして、場面ごとの雰囲気を転換させていました。描かれている情景は、中世でありましょうか。このオペラは15世紀のはじめ、といった時代設定がなされており、その設定に懸け離れることのない世界が描き出されていったのであります。衣裳も時代設定に沿ったものとなっていた。
また、全体的に暗めの照明によって重厚感を演出していて、そこへ場面を象徴する色調の光を照らす(例えば、最後の場面でマンリーコが連行されて、舞台裏で処刑されたシーンでは、血を表す赤の照明が使われた)といった措置が採られていて、効果を上げていました。
総じて、オペラの鑑賞を妨げることがなく、イメージの増強にも繋がる演出だったと言いたい。
最後に、合唱について。
枚方シティオペラ合唱団、と銘打たれていて、市民参加型の合唱団だったようです。そのこともあってか、力強さや輝かしさに不足し、かつ、歯切れの悪い合唱となっていました。合唱パートがクッキリとした音楽像を結ぶ、といったことに乏しかった。
ヴェルディのオペラは、合唱の重要性がとても高い。合唱がドラマを動かしてゆく、といった役割を担っているのであります。初期のオペラでは、≪イル・トロヴァトーレ≫よりも更にその傾向が強く、重要度が更に増すものの、中期となったこの作品でも、そういった性格は歴然と残っている。それだけに、合唱が弱かったことも、本日の公演で大きな満足を得ることができなかった一因でありました。
様々な出演者が絡み合って仕上げられてゆくオペラ公演。その難しさを至る所で感じることとなった、そんな公演でありました。





