鈴木秀美さん&神戸市室内管による演奏会(「イタリア紀行」の副題が付された演奏会)を聴いて

今日は、鈴木秀美さん&神戸市室内管(略称:KCCO)による演奏会を聴いてきました。演目は、下記の4曲。
●ロッシーニ ≪アルジェのイタリア女≫序曲
●ニーノ・ロータ チェロ協奏曲第2番(独奏:ヴァルガ)
― 休憩 ―
●シューベルト ≪イタリア風序曲≫第2番
● 〃 交響曲第6番
令和9年度を最後に神戸市から支出されている補助金が打ち切られる、との報道がなされているKCCO。本拠地である神戸文化ホールでの定期演奏会は、約2000席のうち600席弱しか埋まらないために、補助金を投入する価値があるのか、という判断が働いているようです。
苦境に立たされているKCCO。足繁く演奏会に通っており、かつ、満足させられる演奏を数多く聞かせてくれているオーケストラなだけに、この苦難を乗り越えて、今後も充実した演奏活動を継続してくれることを切に願うばかり、という思いを抱いていました。
そのような状況の中で聴くこととなった本日の演奏会、オケとしての存続の危機を迎えているとも言えそうな報道を受け、存続のためには多くの聴衆が足を運ぶことが肝要であり、そのことがオケの支援に繋がるのだ、といった機運が盛り上がっているのでしょうか、これまでにない大勢の聴衆が会場に押しかけていました。ざっと見たところ9割以上の席が埋まっていたのではないだろうか、といった盛況ぶり。おそらく多くの演奏会では使用されることはなかったと思われる2階席まで、多くの聴衆で埋め尽くされていた。
(そのため、入場にはかなりの時間を要してしまいました。演奏開始時刻が10分ほど遅れた次第。そのため、プレトークで鈴木秀美さんは、入場のためのゴタゴタで演奏開始が遅くなったことに対するお詫びの言葉を添えることとなったのでした。)
本日の聴衆の入りは、「KCCOを支えてゆこう」といった気概の現れに違いなく、とても良い傾向だと思えてなりませんでした。また、大勢の聴衆を飲み込んだホールからは、いつにない熱気も感じられた。このこともまた、演奏者にとっては、大きな張り合いになることでありましょう。
さて、今回の演奏会でありますが、「イタリア紀行」という副題が付けられています。更には、「ウィーンからアルプスを越えたら、そこは楽園」との文言も添えられている。すなわち、ウィーンとイタリアをテーマにしている演奏会だとも読み取れそう。
そのような趣旨に相応しく、ロッシーニの序曲で始まり、ニーノ・ロータのチェロ協奏曲が演奏され、後半にはシューベルトの≪イタリア風序曲≫第2番と交響曲第6番が据えられる、といったプログラミングとなっています。
鈴木秀美さんとKCCOのコンビは、シューベルトを精力的に採り上げておられます。これまでの定期演奏会で、交響曲は、第1番、≪未完成≫、≪ザ・グレート≫を演奏してきた。また、滅多に演奏されることのない≪サマランカの友人たち≫序曲を採り上げてもいる。
先々月、≪ザ・グレート≫が演奏されたばかりですが、今回は、同じくハ長調で書かれた交響曲第6番が演奏されます。≪ザ・グレート≫に対して≪リトル≫(小さなハ長調交響曲)とも呼ばれる、第6番。
≪ザ・グレート≫では、テキパキと音楽は進められ、かつ、目鼻立ちのクッキリとした音楽が奏で上げられていった。生命力豊かでもあった。そのうえで、頗る清々しい演奏となっていた。そんな、鈴木さん&KCCOのコンビでありますので、今回の第6番でもきっと、生気に満ちていて、清新でもある演奏が展開されることだろう。そんな予測を立てたものでした。
また、ニーノ・ロータのチェロ協奏曲が披露されるというのも、注目であります。『ゴッドファーザー』に代表されるように、映画音楽の作曲家というイメージの強いロータですが、純粋なクラシック音楽も数多く手がけている。例えば、ムーティがCDを制作していたりもするほど(その中には≪ゴッドファーザー≫も収録されていますが)。
チェロ協奏曲第2番は、これまでに聴いたことのない作品でした。そこで、昨夜、NMLに所蔵されている音盤で予習をしておいた次第。その音楽はと言いますと、流麗にして、優美ものとなっていました。そう、ギャラントな雰囲気に包まれている作品となっていた。イタリアの作曲家による作品ならではの、明朗な音楽世界が広がっていた。
そのような作品で独奏を務めるヴァルガは、ウィーン・フィルの首席チェロ奏者。きっと、流麗で優美な性格が引き立つのではないだろうかと、こちらにも大きな期待を寄せていたものでした。
それでは、本日の演奏会をどのように聴いたのかについて、書いてゆくことに致しましょう。

まずは前半の2曲について。
何と言いましても、ロータでのヴァルガによるチェロ独奏が素晴らしかった。と、まずは書いておきまして、演奏された順番に沿って、ロッシーニから触れることに致します。
軽快な演奏でありました。ロッシーニならではの疾駆感にも不足はなかった。とは言え、流麗であったり、晴朗であったり、といったものには至っていなかったと言いたい。それは、滑らかさに不足していたためでありましょう。
鈴木さんは、誠実であり、かつ、無骨なところがあるように思える。その面が現れたのだと言えそう。ゴツゴツとしたロッシーニ演奏だった。
なお、シンバルがやたらと衝撃的に鳴らされ、異様に目立っていたのにはうんざりさせられました。なおかつ、金属的な性格の強い音になっていたことも、私の趣味からは懸け離れていた。
ベルカントオペラでの演奏では、シンバルは申し訳程度の音量で打ち鳴らされて丁度良いのでは、と考えます。ミラノ・スカラ座で、ベルリーニの≪夢遊病の女≫が上演されたものを観劇した(2001年1月に観劇、ヒロインのアミーナを歌ったのはナタリー・デセイでした)際のシンバルなどは、実に控えめだった。それでいて、しっかりとした存在感を誇っていたものでした。
このオペラは、アルジェを舞台にしていながら、トルコでの物語さながらに太守が登場します。そのこともあり、トルコ音楽にありがちなシンバルの強調、といったことが意図されたのかもしれません(実際、この演奏でのシンバルは、実にトルコ風でありました)が、それにしても、このシンバルは耳障りでありました。
その辺りも含めて、今一つワクワクしてこないロッシーニでありました。誠実な音楽づくりだったのは、大いに良かったのですが。
さて、話しをロータに移しましょう。
ヴァルガによるチェロ演奏は、ノーブルで、まろやかで、潤いのある音に満たされたものとなっていました。そして、音楽の流れが軽妙にして美麗。気品に満ちた音楽が鳴り響いていた。そう、とても格調が高かったのであります。
しかも、暖かみを帯びていた。明朗でありつつも、単に陽気な性格だけに傾くことはなく、しっとりとした肌合いをした音楽となってもいた。そのうえで、音楽が豊かに息づいていた。
また、弓運びが実に滑らか。その様は、惚れ惚れするほどでありました。その結果として、流麗にして軽快で、気品に満ちた音楽が生み出されていたのでありましょう。
そんなこんなは、ウィーン・フィルの体質そのものに他ならない。あのオケの中の空気をずっと吸ってきたからこそのチェロ演奏だったのだ、ということが痛切に感じられたものでした。
そのようなヴァルガを支える鈴木さん&KCCOによる演奏も、格調の高い、そして、生気を帯びた演奏を展開してくれていました。
興味深かったのは、弦楽器がしっかりとヴィブラートを掛けていたこと。古楽器系の演奏法を積極的に採り入れる鈴木さん&KCCOとしては、異例なことであります。それは、ロータは20世紀の作曲家のためだったのでしょう。また、普段はナチュラルホルンを使用するKCCOでありますが、ロータリー式のホルンが使用されていた。更には、非常に細かな話しになりますが、チェロの首席奏者は、普段はエンドピンを使わないのですが、ここではエンドピンを出していた。
何が言いたいのかと言えば、このロータでの演奏では、普段の鈴木さん&KCCOのからすると、随分と艷やかな響きがしていたということ。手触りが滑らかでもあった。それらがまた、ヴァルガの演奏ぶりや音色や、といったものに適したものだったと言いたい。
さて、ソリストアンコールは、ソリストと同じ苗字の作曲家による≪アダージョ≫という無伴奏のための作品が演奏されました。
(アンコールの演奏の前、ヴァルガによるスピーチが挟まれ、私と同じ名前の作曲家による作品だと紹介していました。また、アダージョのことを”Slowly and Comfortable”と説明していました。なるほど、アダージョをComfortableと捉えるのかと、感心させられたものでした。)
その演奏はと言いますと、滑らかで、ノーブルな味わいを湛えていたことに加えて、逞しさの滲み出るものとなっていました。雄渾な音楽になってもいた。これもまた、ヴァルガの偽らざる一面なのでありましょう。
とは言うものの、やはり、深々とした音楽が鳴らされていた。包容力の豊かな音楽でもあった。確かにそれは、心地の良い音楽でありました。

続きましては、後半のシューベルトの2曲について書いていきます。
後半のプログラムの冒頭を飾ったシューベルトの序曲は、壮麗さと快活さを兼ね備えた演奏となっていました。なるほど、ロッシーニを想起させられるようなクレッシェンドが現れ、そのことによるワクワク感が沸き起こるような造りになっている。とは言え、その点に拘泥するのではなく、シューベルトならではの抒情性といったものにも重きを置いておられていたようでした。そこには、鈴木秀美さんならではの無骨さも滲み出ていた。そのことが、音楽に「重み」をもたらしてくれていた。しかも、それは大袈裟にならない範囲での重みだった。そんなこんなのうえで、冒頭で書きましたように壮麗な音楽が奏で上げられていた。
ロッシーニの序曲での演奏以上に、聴き応えのある、そして、この作品の音楽世界に相応しい演奏だった。シューベルトの作品を演奏する、という範疇において立派な演奏でもあった。そんなふうに言いたい。
さて、いよいよと言いますか、ここからはメインの交響曲第6番について。
こちらも、頗る壮麗な演奏が繰り広げられていました。それは、とても≪リトル≫だなんて呼べないような演奏ぶりだった。
テンポは、第3楽章を除いてやや遅め。特に、最終楽章での遅さは顕著でした。演奏後にプログラム冊子で確認すると、この楽章はアレグロ・モデラートとなっている。確かに、モデラート(中庸に、といった意味)も加えられていることが理解できるテンポ設定でありました。とは言え、アレグロの性格も備えられていて然るべき。そこへゆくと、快活さに乏しい演奏だったと思えてなりませんでした。先を急がずにジックリとした足取りで歩み進めてゆく。このことは重要でありましょう。この楽章には、間違いなくそういった性格が与えられている。しかしながら、繰り返しになりますが、快活さや、滑らかさや、といったものも備わっていて欲しかったのであります。
なお、最終楽章の第2主題は、ロッシーニの≪セヴィリャの理髪師≫序曲にも出てくる音型に頗る似ている。この点については、この曲を聴くたびに思い起こされるのですが、本日のプログラムでは、ひとしおでありました。この交響曲をプログラムに加えた理由は、ここにもあるのでしょう。
最終楽章について先走って触れてきましたが、第1楽章は、実に立派な演奏となっていました。それは、序奏部からして当てはまる。腰をジックリと据えながら開始され、荘重な音楽が鳴り響くこととなっていた。手応え十分な演奏。
そのような印象は、主部に入っても継続される。鈴木さん&KCCOのコンビにありがちな、ちょっと荒削りな感触がありながらも、音楽は力強く推進されている。とは言え、テンポはやや遅めなために、上滑りするようなことは皆無。
なお、ロータのチェロ協奏曲では、古楽器系の演奏法を積極的に採り入れるスタイルをかなぐり捨てていた、といった向きがあったのですが、後半のシューベルトにおいては、普段のこのコンビによる演奏ぶりに戻っていた。それだけに、荒削りであったり、無骨であったり、といったことがより一層身に染みて感じられもしたものでした。鈴木さん&KCCOのホームグラウンドに戻ってきた、といった感じでもあった。
そのような感慨もあり、かつ、充実感タップリな演奏ぶりだったために、ググッと惹き込まれながら聴き進んだものでした。
しかしながら、途中から、疑念が湧いてきました。この交響曲での演奏にしては、あまりに立派過ぎるのではなかろうか、と。そして、この作品が宿している可憐さに不足しているのではないだろうか、と。
そう、シューベルトの交響曲第6番には、やはり≪リトル≫と呼ばれるに相応しい性格が備わっていて欲しい。それは、愛らしさとも呼べそうなものでもある。
(鈴木さんは、プレトークで、この交響曲には「可愛らしい」という言葉を使うのは相応しくないかもしれないが、それに類する性格を持っている、といった趣旨のことも語っておられました。)
そんなところに考えが及んでゆくと、この交響曲をプログラムに組み込んだ意義が希薄だと思われるようになったのでした。しかも、テンポがやや遅めだったこともあり、溌剌とした雰囲気も弱かった。更には、清々しさにも乏しかったように思えた。似たようなことは、第2楽章においても感じられたものでした。
そこへゆくと、速めのテンポが採られていた第3楽章は、キビキビとした躍動感が十分でありました。スケルツォとしての諧謔性にも不足はなかった。本日の交響曲第6番での演奏で、最も成功していたのは第3楽章だったのではないだろうか。そんなふうに思えたものでした。
立派な演奏が繰り広げられていたにも拘らず、贅沢な不満を抱いた、シューベルトの交響曲での演奏。しかしながら、これが、私の偽らざる印象でありました。要は、あまりシューベルトの6番らしくなかったな、というのが正直なところなのであります。
アンコールは、「イタリア紀行」という副題にちなんで、レスピーギの「シチリアーナ」。
真ん中の箇所での激情的な素振りに、とても惹かれた演奏でありました。第2ヴァイオリンや、ヴィオラ、更にはチェロと、細かなパッセージを渾身の力を籠めて奏で上げていた。それがまた、鈴木さん&KCCOのコンビらしい実直さでもあった、と言いたい。更には、鈴木秀美さんも情熱の人なのだということが如実に現れていたのでありました。
なお、アンコールが演奏される前に、鈴木さんはマイクを持って聴衆に挨拶をされました。その中で、今、このオケは苦境に立たされていることが触れられた。また、「神戸の街から音楽を聴く機会が無くなってしまうことは、悲しいことではないでしょうか」と、聴衆に呼びかけてもおられた。
このようなことを、プレトークで語られるのではないだろうかと想像していたのですが、プレトークでは一切触れなかった。そこに、鈴木さんらしい高潔さを感じたものでした。
しかしながら、終演間近に、この点に触れられた。とは言うものの、その語り口は、頗る篤実なものでありました。そして、神戸の街と、音楽とを大事に思われていることが滲み出る(しかも、全く大袈裟な形でなく)スピーチとなっていた。
(鈴木さんは、神戸の生まれでもあります。)
そのような思いに触れたことによって、より一層、このオケを応援したくなったものでありました。





