クァルテット・インテグラの京都公演を聴いて

2023年9月19日

今日は、クァルテット・インテグラの京都公演を聴いてきました。演目は、下記の3曲。
●モーツァルト ≪狩≫
●ドナトーニ ≪そのハツカネズミは笑わない≫
●ブラームス 弦楽四重奏曲第1番

この弦楽四重奏団は、4人の奏者が桐朋学園に在学している2015年に結成され、2021年のバルトーク国際コンクールで優勝し、2022年のミュンヘン国際音楽コンクールでの弦楽四重奏部門で第2位を獲得したというグループ。予定されていた3曲を弾き終えた時点で、第1ヴァイオリンが挨拶をされたのですが、結成されて8年が経過し、今回が初めての京都での公演だったとのことでした。
このグループを聴くのは、全くの初めて。モーツァルトとブラームスの作品の間に1988年に作曲された「現代音楽」を挟んでいるという意欲的なプログラムにも、目を引かれます。
どのような音楽に巡り会うことができるのだろうかと、ワクワクしながら会場の京都コンサートホールに向かったものでした。

3曲を聴いての感想は、≪ハツカネズミ≫が圧倒的に素晴らしかったということ。この作品に対しては、途轍もない思い入れがあるのでしょう。であるからこそ、本日の演奏会のプログラムにも採り入れた。なお、プログラム冊子には、「演奏は非常に難しく、この曲にチャレンジする弦楽四重奏団はほぼ無いと言われており、本日は貴重な機会となります」と紹介されています。
また、これもプログラム冊子の解説にも書いてあったのですが、現代音楽にしては解りやすい作品となっていた。と言いつつも、様々な奏法が組み込まれていて、多彩な音楽世界が描き出されてゆく作品となっていました。
例えば、ヴィオラとチェロによるグリッサンドではメシアンによる≪トゥーランガリラ交響曲≫でのオンドマルトノを想起させる響きが生まれていたり、その直後の2挺のヴァイオリンによるけたたましい掛け合いには同じくメシアンによる鳥の描写に似た世界が見出だせたりと、興味深い音楽でありました。ドナトーニ(1927-2000)はイタリア人作曲家でありますが、この作品の原題にはフランス語が使われているようでして、メシアンに傾倒していたのかもしれません。
その一方で、リズミカルな動きも頻繁に出てきて、心弾む音楽となってもいた。この点については、とりわけ、ヴィオラがその役割を担う箇所が多く見受けられた。本日のヴィオラの演奏ぶりがまた、実に機敏でノリが良く、その重責を見事に果たしていました。
総じて、「攻め」の音楽となっていたと言えそう。そのような作品を、緊張感を持続させながら、切れ味鋭く、かつ、克明に描き上げてゆく演奏が展開されたのでありました。また、4人の気魄が凄まじく、各奏者の弓の毛がかなり切れていた。そのことがまた、音楽と演奏の壮絶さを強調してくれていたと言いたい。

そのような≪ハツカネズミ≫での演奏とは対照的にと言いましょうか、モーツァルトとブラームスでは、エッジの効いた演奏ぶりというよりも、おおらかで円満な演奏が繰り広げられていました。古典派やロマン派の音楽のスタイルをわきまえた演奏だったと思えます。
このグループは決してプリマドンナ型の弦楽四重奏団ではないと言えましょう(第1ヴァイオリンを女性が担当していますので、プリマドンナと表現してみました)。第1ヴァイオリンが独壇場で名技を誇らしげに見せつけるというよりも、4名のアンサンブルの緻密さで勝負するグループだと思えたのであります。いやむしろ、第2ヴァイオリンとヴィオラの主張が強く、音楽を内側から(内声から)支えていこうというグループ。音楽へのパッションは、第1ヴァイオリンよりも第2ヴァイオリンのほうから、より強く迸り出るようなことも多かった。そのような音楽づくりに乗っかって、第1ヴァイオリンが主旋律を奏で上げてゆく。それでいて、第1ヴァイオリンは、音楽をシッカリとリードしている。そのような演奏ぶりでありました。
(これは表面上のことになりますが、≪ハツカネズミ≫では、音楽が「迷子」にならないように、第1ヴァイオリンは弾きながら指揮をしてもいた。)
モーツァルトとブラームスでは、そのような音楽づくりが如実に現れていました。時に、もう少し、音楽に凝縮度が備わっていても良いのでは、と思われる箇所も見受けられましたが、それは、今後の研鑽によって進境を見せてくれることでしょう。
(彼らは今、ロサンジェルスのコルバーン・スクールというところで研鑽を積んでいるようでして、明日にはロサンジェルスに帰るとのこと。)
そのような中でも、ブラームスでの最終楽章では、暗鬱とした音楽世界から滲み出る情熱が、印象深かった。
なお、時にチェロが弱く思えるのが、少し残念でありました。彼女は、4人の中でもとりわけアンサンブルへの意識が強かったように思え、終始周りに視線を送りながら、音楽の流れが滑らかになるように気を配っていて、音楽に対して献身的だったとも言えそう。しかしながら、チェロの動きが、今一つクッキリと浮かび上がってこない箇所が見受けられた。例えば、≪狩≫のメヌエット楽章である第2楽章でのチェロの動きは誠に意味深く、その場その場での音楽の性格を特徴づけてゆく。そのチェロの動きに籠められた音楽の性格づけが、あまり鮮明なものとなっておらず、表情に奥行きが生まれてこなかった。「チェロが残念だなぁ」という思いを抱きながら≪狩≫を聴き進んでいたのですが、最終楽章では、小刻みに動くチェロが、明快な像を結んでいた。しかも、最終楽章でヴィオラがチェロに向かって挑発すると、それにもシッカリと応えていた。
≪狩≫の最終楽章は、とりわけ入念にリハーサルを積んだのかもしれません。あの最終楽章での演奏ぶりが、コンスタントに発揮できれば。そんな思いを抱いたものでした。

アンコールは、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第16番の第2楽章。来年の2月には、ベートーヴェンの第14,15,16番を一気に演奏するという演奏会を京都で(青山音楽記念館にて)開くようでして、今、この3曲を練り上げているところ(或いは、これから練り上げてゆく)なのでしょう。
第16番の幽玄な世界、それでいて、第2楽章にはコミカルでシニカルな味わいが加えられている、そのような音楽に、本日の演奏では今一つ踏み込めていないようにも思われました。この難曲を、これから、どのように仕上がってゆくのでしょうか。